だるま座創立20周年記念公演である。

一口に20年といっても、だるま座のそれは「観劇が生活の一部となってほしい」という想いの下で、荻窪駅南口商店街の中に自前のアトリエを持ち、多いときは2ヶ月に1回以上の公演を行なってきた。劇団経営は決して楽なものではないだろうに、その地道な活動は本当に頭が下がるものだ。 

 

さて今回の公演は荻窪ではなくて下落合のTACCS1179(俳協ホール)とやや大きな空間である。因みに俳協の正式名称は東京俳優生活協同組合だ。高田馬場から西武新宿線でわずか1駅なのに劇場の周りは閑静な地域で、ここでの公演を観た後で飲みたくなった時はいつも店を探すのに苦労してしまう()。 

 

八田尚之によるこの作品は昨年春に、だるま座とも関係が深い劇団きみのためが上演しているが、今回も同じく菊地一浩が演出。 

 

舞台は中央で大きく2つに分かれ、下手側に提灯屋の小原平造一家の住居、上手側にこの家の大家の部屋。昨年きみのためが上演した時は下手の入口の戸の上にあった日蓮上人の像を祀った棚が、今回は正面奥の壁上部に設えてある。 

 

物語は終戦間際の7月中旬に始まる。平造は三男・正三の出征祝いを前に焼酎を飲み始めている。度重なる空襲や庶民にも察せられる戦況の不利も平造にかかれば敵を油断させるためで、神国・日本が負けるはずはないと信じ込んで日蓮上人へのお題目を忘れない。妻・いくはそんな夫に呆れながらもずっと支える下町のおっかさんの典型だ。

一方、この家の大家はもう十数年というもの、石の絵ばかり描いていて近所の子供たちから「馬鹿一」と囃したてられている変わり者だ。

 

やがて終戦。日本の敗戦と次男の戦死に衝撃を受け、平造は押入に引き籠る毎日。復員した長男の平太は闇市で売るための密造酒(カストリ)造りに精をだし、正三は共産主義にかぶれる。長女・みさは結婚しているものの、次女・ぎんは芸術だと心に言い聞かせてストリッパーに。馬鹿一は野花を摘んできた子供に礼として石のデッサンを与えるが、そのデッサンを目にした白雲が訪ねてきて、人物を描くように勧める。そして白雲が馬鹿一の部屋で見た花瓶代わりの壷を手に入れるため、骨董屋の雅楽堂が馬鹿一の部屋に出入りを始め、実は日本一の巨匠画家であった白雲は女性モデルを馬鹿一の部屋に差し向ける…。 

 

昨年のきみのため版では幾度かの暗転がいずれも長すぎて暗転で客の意識が中断してしまう嫌いがあったが、今回のだるま座版ではそれが改善されている。 

 

平造役の剣持直明は冒頭で登場した時から本当に酔っぱらっているように見え、いかにも善良で、どこか抜けたところもある下町のおっさんを感じさせるし、いく役の末次美紗緒がこれまたおっかさんを実に巧みに演じている。この夫婦を演じる2人の存在感が舞台をぐっと厚いものにしている。

きみのため版では若い役者が演じていた馬鹿一を塚本一郎が演じているが、塚本くらいに歳を重ねていてこそこの物語が違和感なく成立するのだということが実感される。

きみのため版と同じくぎんを演じた原章子が魅力的。ただ、下着姿になった時にシミズ(シュミーズではなく、もっと野暮ったくシミズと呼ばれていた)ではなく、肩紐が細い現代のスリップ(しかもベージュ色)だったのが残念。そういえばみさ役の髙橋怜奈が序盤で白いブラウスの下に黒いブラの肩紐が透けて見えていたが、あれも論外だ。

 

ラストでいくがあやしている赤ん坊を平造が抱き取る場面があるが、赤ん坊が白い肌に見えたのは照明の関係か。あそこはやはり黒い肌の赤ん坊であってこそ、平造が一度は死のうと考えたほどの絶望感と、それでも孫の可愛さに新たな希望を見出すという物語のエンディングが意味のあるものになるはずなのに…。

 

とはいえ、今年初めの「金の卵1960」同様に舞台の奥の露地を行き交う人々だけのために贅沢な役者の使い方をしていることもあって、観応えのある舞台だった。

3回目のあやめ十八番である。
14年7月の「肥後系 新水色獅子」が初見で、その時は殊に主宰・堀越涼の演技に失望し、ここはもう観なくともいいなと思ったのだったが、一昨年4月の「長井古種 日月」には私が好きな花村雅子が客演したので彼女目当てに再見。これも、はっきり言ってお手軽な脚本には深みが全く感じとれず、多数の出演者の中でまともな演技をみせていたのは花村一人だったといっても過言ではなかった(CoRichの「観てきた!」にも、その旨を書いている → http://stage.corich.jp/watch_done_detail.php?watch_id=263282 )。

本来ならここで止めるところなのだが、今回もう一度観てみようかと思ったのは、昨年暮の花村のユニット “えうれか”による「岸田國士 短編四作品上演」にあやめ十八番の副代表・大森茉利子が客演していたから、という単純な理由に他ならない(5月下旬の公演は日程が合わずに観れなかった)。

開演50分前に劇場着。入口のガラス扉の前に数人並んでいるのを見て、結構早くから来てるんだなあと思ったのは早トチリ。なんと階段の下の方からず~っと行列ができていたのだ。なんという人気か。

開場されて中に入ると、客席入口から奥へ細長く延びる舞台の両側に客席が作られている。舞台ぎりぎりまで客席となっているが、移動する客が舞台にあがってもいいように客席に面した舞台の端に黒いシートが敷かれている。舞台が低く、最前列の客席が舞台ぎりぎりだと平気で客に土足で舞台上を歩かせる劇団も多い中でこれはまずまずの好印象(私は舞台というものは役者が命を懸ける神聖な場所であり、客が土足で上がるなどもっての外だと思っている)。

5分弱の遅れで開演。上演時間2時間。

冒頭は「書けない」と苦悶する安土学院大学ミュージカル研究会の一鍬田修一と彼を激励して何とか台本を書かせようとする部員の宮作慶子との会話から。一鍬田は慶子を演出に指名すると、田舎に引っ込んでしまう。
場面は変わって、小堀屋(だんご屋)の一日の始まりが歌とともに紹介される。これが一鍬田の書いたミュージカルかというと然(さ)にあらず、このだんご屋の面々も役者不足を補うためにそのミュージカルに駆り出されていく…。

だんご屋の三姉妹(蜜:金子侑加、白:大森茉利子、綺:小口ふみか)は確かに美人揃いだが、全編を通して表情が豊かで、笑顔が最もイキイキしていたのは慶子役の星亜沙美と綺役の小口だった。大森も美人ではあるのだが、華やかさが先にたって純な感じに欠けるのが残念なところ。
慶子が部員・森戸役の笹木皓太に「お前はまず髭を剃れ」と言う場面には思わず笑ってしまったが、さて笹木が髭を剃ったらどんな顔になるのだろう(私はこの笹木を創像工房infrontof.やあんかけフラミンゴに所属していた時にも観ているはずなのだが、まるで記憶にない…)。

だんご屋家族の物語とミュージカル研究会の活動および彼らが創っているミュージカル(作中人物の言葉を借りれば「ミュージカルで、西部劇で、登場人物はすべて虫けら」)の3つのストーリーが有機的に噛み合って相乗効果をあげているかといえばそんなことはないし、尻切れとんぼに終わっているものさえある。ただ目先を変えるために、いくつもの要素をごちゃ混ぜにしたといった感じだ。それは「肥後系 新水色獅子」でも同じだった。それが堀越涼の作風なのかもしれないが、すっきりしないし、演劇的なカタルシスもない。

まぁ、私が観た3本の作品の中では最もわかりやすいし、面白くもあったが、さてこの作品(および他の2本)を数多ある東京の小劇団群の作品と並べた場合に、抜きん出て惹きつけるものがまるで感じられないのだ。私にはこの劇団がどうしてこんなに人気があるのか理解できないというのが正直な感想…。

ところで、劇中での台詞に「フォアローゼス」というウイスキーが登場するが、それは私が以前洋酒会社にいた時、マーケティングを担当していたブランドのひとつで、4つのバラのシンボルマークのついたグッズを今も多数持っている(笑)。

さて、一鍬田役でもある堀越は序盤で出番が終わった以降は2階のバルコニーでパイプ椅子に足を組んで腰掛け、時折メモを取りながらずっと舞台を見つめていたが、私にはその姿が、1968年私の故郷・長崎県佐世保市に米空母エンタープライズ号が初寄港した際の全国から集まった反対派デモ隊と機動隊の、投石と流血に塗れた大規模な衝突(俗に言う「エンプラ事件」)を近くの街宣車の屋根の上から冷た~い目で見下ろしていた当時の社会党書記長(後の委員長)・石橋政嗣の姿(それはニュース映像として流れたのだが、TV画面からもまさしく冷酷な悪魔のような空気を纏っているのが感じられた)と重なり、思わず寒気を覚えたのだった。

【総合評価】 ☆☆☆ (白星5つが満点)


初日から1日ずつ間を空けての3回目の観劇はもう千穐楽。
3回観ての総括としよう。

まず思うのが、劇中で足尾鉱毒事件自体についてほとんど説明がなされないこと。ただ村全体が毒に穢れていることは台詞の端々からも察せられようが、その原因が何であるのかの説明もない。無論私ら世代には昭和の水俣病と並ぶわが国の最も大きな公害としての知識はあるが、現在の小劇場観客層の多くを占める若い人たちにどれだけ理解できただろう。田中先生という人物についても同様だ。漠然と公害だと理解するか、もしかしたら全く架空の村での架空の事件としか思わなかったかもしれない。全てを台詞で説明するのがいいとは決して思わないが、物語の大きなバックボーンであるだけに一考を要するところだ。なお、当日パンフには足尾鉱毒事件について説明されているが、開演前も劇場内の照明は暗めで、当日パンフも黒地に細かな白文字で書かれているために、非常に読みづらい。といって劇場を出てから読む人がいるかといえば、そういう人は少ないだろう…。

「“たまよばい”しよう」という言葉が美鈴を演じる吉水雪乃の口から出たのを最初聞いた時はびっくりした。「たま夜這い」かと思ったのだ。その後の展開で「魂呼ばい」という字が頭に浮かんできて、あぁそうかと納得したものの(この言葉の説明も当日パンフには書かれている)、これもわかりづらいところだ。

男優で印象的だったのは、勇次を演じる山村鉄平が千鶴子の出産時の真実を兄の惣太に問い詰める時の目だ。それまでの、村と自分の将来にどこか諦めきった、醒めたような感じが一変した凄まじさを孕んでいた。

誰一人救われる者のないエンディングは、日本が近代化されていく中でこの村が辿った不運な歴史(と単純に言ってはいけないだろうが)と併せて強く心に残る。彼らをこの村に縛り付けているもの、それは単に生まれ育った故郷という以前に「先祖代々の土地」という思いだ。現在では希薄になってきたこの思いが、強制廃村させられ、村を追われることの無念さを倍加させるのだ。
ただ、ラストの、勇次が全てを暴露した上で自殺した千鶴子に「お前は幸せだったか。俺と一緒になって良かったか」と語りかける場面は、それは吉水の優しさから出たものだろうが、私には不要と感じた。

吉水恭子は初日前日のTwitterで「作家としてプロデューサーとして、ご期待に必ずお応えできる作品になったと自負しております!←実はここまで自信ありげに言えるのはなかなかないこと」と書いていたが、確かに全体として観応えのある作品に仕上がっていた。

さて、この作品を私がなぜ3回も観たのかについても触れておこう。それは一にも二にも花村雅子につきる。昨秋の鮭スペアレ「ロミオとヂュリエット」後に体調を崩し、11月のピープルシアター「バグダッドの兵士たち」を降板、12月の自身のユニット・えうれかの公演も出演を控えて演出だけとなっていた花村が今年5月の<火遊び>公演「菊菊&刀」で舞台に復帰したが、その後6月末からのロ字ック「荒川、神キラーチューン」は直前に体調不良で降板。その時点で決定していた7月の吉野翼企画「詩稿・血を、噛(は)む。-吸血鬼、男色大鑑より-」と今回の風雷紡、そして9月のLink Project「少女仮面」までは出演するが、その後は来春予定しているえうれか公演までは舞台を休んでゆっくり療養するという。9月の「少女仮面」はアンサンブルとしての出演らしく、本格的な演技を観るのはこの風雷紡以降はしばらくできないことになる。という訳で1日置きの3回観劇となった(当初は毎晩観ようとさえ思っていたのだから、これでも我慢したほう…。笑)。ではなぜ私がこれほど花村雅子に惹かれるのか。決して器用な役者ではないし、彼女より演技のうまい女優はいくらでも居る。彼女より美貌の女優だって何人も知っている。でも、花村が一番なのだ。それは、彼女全体から滲みだす空気なのだろうが、言葉ではうまく説明できない…。

【総合評価】 ☆☆☆☆ (白星5つが満点)