お弁当アーカイブ ☆彡(0022) 豚丼のたれ 大根飯 帯広の歴史

2年ほど前のお弁当を今思い起こしながら、アーカイブのために書いています。すると写真を見ても何を食べたのかどうしても思い出せないことがあります。その頃、一緒に昼食を楽しく食べていた方に写真を送って聞いても、まったく記憶にないという返事が返ってきました。それがこのお弁当です。

おかず領域にあるのは明らかに豚肉を帯広からの豚丼のたれで仕上げたものです。この豚丼のことをくわしく書きます。ご飯領域もものが思い出せないのです。大根飯のようにも見えます。一応大根飯ということにしておきます。

さて、豚丼のことです。農林水産省の「うちの郷土料理」から引用します。
https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/butadon_hokkaido.html
「主な伝承地域 十勝地方  主な使用食材 豚肉、米、ねぎ
歴史・由来・関連行事
明治時代末ごろから十勝地方では養豚業がはじまり、豚肉が食べ親しまれてきた。養豚業が盛んであった十勝地方の帯広市が「豚丼」発祥の地といわれている。厚切りの豚肉を砂糖醤油で味付けしたタレでからめ、ごはんの上にのせた「豚丼」は帯広市の名物料理となっている。
昭和初期に帯広市内の食堂で、炭火焼きした豚肉にうなぎの蒲焼き風のタレを使用した丼をつくったのが「豚丼」の発祥といわれている。当初は、農家や開拓者が汗を流し働く姿を見て、スタミナ料理を提供したいと思い、食材にうなぎを使おうと考えたものの、うなぎは高価で手に入りにくかった。そこで目を付けたのが、豚肉だった。当時は、十勝地方では養豚業が盛んにおこなわれていたこともあって、豚肉は身近で手に入りやすかったという。こうして帯広の地で誕生した「豚丼」は、いまでは全国でも知られるほど有名となった。」

帯広では家庭料理で幅広い世代に食べられているそうです。十勝地方の食堂でもよく見かけるメニューです。

これを教えてくれたのは帯広出身のぬいぐるみデザイナーで私の大親友のキョンです。キョンの従姉妹のれいかぽんと一緒に帯広を案内してくれたときです。豚丼のたれがたくさん販売されている中で、キョンの父上がこれこそ一番と推薦している豚丼のたれを土産にもらって帰りました。使用のこつを必ず守れと言われて渡されました。豚を焼いて火を止めてからたれを絡ませるようにというこつです。

トッピングにさらした葱がよく使われています。グリーンピースを載せるのもあるようです。

帯広の開拓の歴史が有名です。静岡県立大学の「静岡の大地も見る」から引用します。
https://www.u-shizuoka-ken.ac.jp/guide/outline/oike01/ground15/


「明治政府は、明治2年(1869)に蝦夷地を北海道と改め、開拓使を設け、国・郡に分けた。この時、十勝国が置かれ、広尾・当縁(とうぶい)・十勝・中川・河東(かとう)・河西(かさい)・上川の七郡に分けられ、帯広地方は河西郡に属した。明治2年8月、十勝・中川・河東・上川の四郡は静岡藩に、広尾、当縁・河西の三郡は鹿児島藩にゆだねられた。間もなく鹿児島藩は三郡支配をやめ、そこは徳川家直系の一橋家および田安家の所領となり、十勝国はすべて徳川家一族の領地となった。帯広の地は一橋家の支配下に入ったが、そこはまだアイヌ民族の天地であった。静岡藩は明治4年6月、十勝最初の移住農民6戸7人ぐらいを大津近辺に入植させたが、同年の廃藩置県、開拓使直轄に伴って静岡藩の支配は終止符を打ち、移住農民も帰国してしまった。

 明治12年からの蝗害の大発生は、十勝内陸部が広野であることを内外に知らしめ、また内陸に入った商人や猟師らの中に、利別太(としべつぶと)などで無願開墾に従事する人たちも現われた。依田勉三(よだべんぞう)は、明治14年に十勝沿岸部を視察、大津で内陸部への開拓者の移住計画があることを耳にして強く心を引かれた。静岡県松崎村に帰郷した勉三は、早速兄佐二平以下の一族の賛成を得て、明治15年1月、開拓団晩成社(社長、依田園)を組織した。この年2月に開拓使は廃止され、十勝国は札幌県に属することになった。同年6月、勉三と同志鈴木銃太郎は、入植地の選定と諸準備をするため渡道し、札幌県庁などに立ち寄ってから十勝内陸部を踏査、音更(おとふけ)のモッケナシの馬場猪之吉の所にいた大川宇八郎の案内を受け、同年7月16日、アイヌの人々が住むオベリベリを有望の地として入植地に決定した。銃太郎は、オベリベリに残って翌年開拓団を迎えるため作物の試作等の準備に入り、勉三は、札幌県庁などに寄ってから帰郷、渡邉勝とともに移民や株主募集などに奔走した。

 そこから長い開拓の物語があり、晩成社の人たちは、本州と異なる亜寒帯の気候風土にとまどいながら開拓に立ち向かった。移民の後が続かず近辺からアイヌの人たちが晩成社を訪れて小屋作り、新墾、再墾、播(は)種、除草、収穫等の開拓の仕事に従事協力し、和人とアイヌの協調で開拓が進んだという。」

 


伊豆半島の東南部、松崎町にある旧依田邸は昭和36年からホテルとして営業をしていたが、依田家として住宅を残し守ることが不可能となり、松崎町が守っています。