シリア最大の見所と言えば、このパルミラの遺跡と言えます。
そしてこのパルミラの凱旋門(記念門)から見学を始めましょう。
パルミラの遺跡は勿論、世界遺産に登録されています。
パルミラ王国はゼノビアという女王によって治められていました。
当時、ローマ帝国ではガリア帝国の分裂などで国内が混乱していて、
その合間を縫うように、ゼノビアはパルミラを拡大していきました。
膨大な富を背景に、シリア、エジプト、アナトリアまで入手し、
息子に皇帝アウグストゥスと名のらせるほど権力を広げました。
そして、さらに野心に駆られたゼノビアはローマ帝国にまで反旗を翻しました。
272年にパルミラ軍は東方地方の城奪回に乗り出しました。
皇帝アウレリアヌスは、アラマンニ族やゴート族を破って、
北方のゲルマニア人の侵入を食い止めた後、パルミラ奪還のため群を率いて遠征。
パルミラ軍との2度の戦いに勝利すます。
ゼノビアはその為にパルミラへ敗走し、息子は戦死します。
ろう城戦が長引きゼノビアはペルシアへ逃げようとして捕えられ、
町は徹底的に破壊されます。
ゼノビアがいなくなったパルミラは衰退の一途を辿ります。
残った市民もパルミラを見捨てて立ち去り、
1089年には大地震によって廃墟と化してしまったのです。
凄い洋服で失礼します。
パキスタンの民族衣装を着ています。
行きに乗ってきた飛行機はパキスタンエアーでしたので、カラチで乗り換えするのですが、
空港でこのシャルワールカシミースが売っていましたので、思わず衝動買い。
一部染みが付いていたので30ドルと言っていたのを15ドル位に負けさせて買いました(笑)。
本来ならパンツも付いているのですが、ゴムを入れないとウエストの部分で止まらず、
ずり落ちてしまいますので下はGパンをはいております。
尚、写真は列柱通りです。
南のローマ 円形劇場です。
アゴラにある柱。
商取引が行われた場所で、香料・象牙・真珠・絹織物などが取引されたといいます。
周辺の農民や遊牧民が商品を運ぶのに、
町の中心部を横切らなくても良い場所が選ばれています。
墓の谷にある、塔墓の中でも有名なエラベール家の塔墓。
エラベール家はナボ神殿建設にあたり多額の寄進をしたパルミラの富豪だったそうです。
この塔は実は、お墓のマンション形となっています。
塔の内部は4階建てになっていて、各階にいくつも棺が入れられるようになっている。
この塔だけで300人も葬ることができる構造になっている。
塔の中は壁画や個人の面影を写したのであろう彫像などが飾られています。
このような塔墓は紀元前1世紀ころから造られ始め、
パルミラで非常に流行ったということですが、後にこの地を襲った地震で崩れたことから、
その後は地下の墓が流行るようになりました。
その地下にあるのが”三兄弟の墓”です。
その三兄弟の墓でお会いした親子。
お子さんが可愛い^^。
お母さんも上品な女性でした。
パルミラ遺跡の全貌です(笑)。
遺跡は点在しているのでこれだけではないのですがメインな遺跡が集まっている場所です。
葬祭殿で会った現地のシリアの人たち。
イスラム教の女性たちですので、私が女性だからという面がありますが、
楽しく撮影させて頂きました。
写っているのは全て女性だけですね^^。
”一緒に写りましょうよ”と彼女たちが声をかけて頂きました。
景色があまり良く判りませんね(笑)。
気温も高くなってきましたので、パキスタンの上着を脱いで観光しています。
この写真に写っている皆さん、今でもご存命でしょうか・・・。
笑顔を見るたびに胸が痛い想いをしていました。
アラブ砦。
正面の壁のような部分は現在破壊されてありません。
本殿の入口になります。
巨大な門で、大人の約10倍近くあるような感じです。
入口を入ったところにある神像を祀っていたと思われる部屋ですが、
同じような部屋が左右にあり、20世紀初頭までベドゥインが暮らしていたそうです。
レリーフがありました。
豊穣の女神でしょうか。
ベル神殿の正面の壁のような場所は現在破壊されてありません。
シバの女王と呼ばれているゼノビアの王国は再び、破壊尽くされて、
この世から消えてしまうのでしょうか。
今では幻の遺跡と呼ばれるパルミラの地は復活する事は無いのでしょうか・・・。
一人旅していると人に頼んで写してもらう事が多いのですが、この時の遺跡の中で、
廻りを見渡しても頼む人が居なかったので、タイマーで撮影をしています。
念願だったシリアのパルミラ遺跡に収まりたくて撮影しました。
下の写真も全部セルフで撮影しています。
邪魔な私は許してくださいね(_)。
多くの遺跡が壊されていて、こういった風景が見られるのかは、
今では行ってみないと判りませんが、現在イスラム国から奪還されているとの事です。
ベル神殿。
パルミラ遺跡の南東部分にあります。
パルミラで最も重要な建物だったと言います。