-疎通不在の現実、'私の心が聞こえる?'が聞かせたこと

果たして聞こえる者は聞いて聞こえない者は聞くことができないか。
誰かの前で話しているけれどその聞く耳を閉めて鍵をかけて、
自分だけの話を繰り返す者は果たして聞こえる字だろうか。
耳が遠くなって聞く訳には行かないがそれでさらに集中して相手方の口を、
眺める者は果たして聞くことができない者なのか。
'私の心が聞こえる?'といういつでも腹をくくれば地球反対側まで、
即刻に疎通できる世の中に生きながらも、本来偏見のために、
あるいは閉じられた心のために疎通できない現代人の悲哀を家族ドラマの、
枠組みで描き出した作品だ。


お父さんと息子が対決して、お母さんと息子が対立して、
復讐のためにある子供の人生を道具のように利用するこのドラマの設定は、
とても刺激的だ。
状況と素材だけ離して見ればどん詰まりドラマのそれと別段違わない。
だが、このドラマはどん詰まりでない。
その状況がある程度の可能性を担保していて、刺激的な状況が刺激にだけ、
留まるのではなく一つの人間運命の悲劇性までを描き出しているためだ。
もちろんこのどん詰まりの状況と対称点に立って人間が行かなければ、
ならない道を提示する優しい人物郡がいたので可能なことだ。

その優しい彼らが身体的な障害を持っているという点は図式的という、
限界にもかかわらず、このドラマの明らかな主題意識を表わす。
ウリ(ファン・ジョンウム)のママ(キム・ヨジン)は先天性聴覚障害者であったし、
ウリが愛することになったチャ・ドンジュ(キム・ジェウォン)は事故による、
後天的な聴覚障害者だ。
そしてウリのパパのボンジュング(チョン・ボソク)は精神遅滞を、
持っている人物であり、ウリのおばあさんのファン・スングム(ユン・ヨジョン)は、
痴呆を病む。
すなわちウリを中心にすべての人物が障害を病んでいる。
だが、その中でウリは関係をはつらつと引き続き出す手話のような人物だ。
この優しい世界の障害を持った人はそれで他の対称点に存在する、
チェ・ジンチョル(ソン・スンファン)やテ・ヒョンスク(イ・ヘヨン)のような、
心の障害を持った人物らと比較される。

重要なのはこの中間にかけた二人の男、チャ・ドンジュと、
チャン・チュナ(ナム・グンミン)だ。
彼らは胎生的では敵家の子供たちだ。
すなわちチャン・チュンハの実父のチェ・ジンチョルは、
チャドンジュのおじいさんを死に追い込むようにした人物で、
その事実さえ分からなかったチャン・チュナはチャドンジュのお母さんによって、
復讐の道具として育てられた人物だ。
ところでここで妙な関係が形成される。
すなわちチャ・ドンジュとチャン・チュナは幼い時期から共に大きくなりながら、
親兄弟のような情を持つようになったのだ。
それで大人たちの復讐劇の中でこの二人は深い傷を受けるが、
結局お互いを心配する関係を抜け出さない。


したがって'私の心が聞こえる?'という結局自身の親お父さんでなく、
自身を育てた家族らの中に戻るチャン・チュナの話ながら、
両親たちによって運命のように与えられた復讐の輪を切って、
自分たちの新しい関係を続けさせるチャン・チュナとチャドンジュの話でもある。
また、これは結局16年ぶりに家に帰ってきてご飯一食を食べるボン・マルを、
通じて真の家族、いや家族が何かを尋ねるドラマでもある。
亡くなったお母さん、ファン・スングムが埋められた木の下の血管と関係なしで、
みんなが集まって雨をよける場面で終わるエンディングはそれで意味深長だ。
家族という血管によって生じるのではなく共にご飯を食べて苦しめられて、
生きていくその過程で生じるという伝言。

家族の話で還元されたがこのドラマがしようとする話は、
結局疎通に対することだ。
疎通と共感の時代、私たちは果たして他人の心を聞いているだろうか。
もちろん家族ドラマとメロドラマの枠組みに復讐劇の典型的な構図を、
借用しているけれど、'私の心が聞こえる?'の響きが格別なことは、
その中で昨今の通じない現実を発見するためだろう。
あなたはどうなのか。
その聞こえない、あるいは聞けない障害を跳び越える疎通があたえる手に、
あまった共感の声をあなたは聞いたのか。
この作品を見て泣いて笑ったとすればあなたがその心の声を、
聞いたという証拠だ。