前回から、岡本太郎が気になり過ぎて岡本太郎美術館へ行ってきた。

 

美術館の中では、少女がドクロと向き合っている絵画に目を奪われた。

と同時に、「自分を突き放して過酷な道に身を投じた方が命が燃えて人生に彩が生まれる」

という岡本太郎の言葉を何度もフラッシュバックした。

 

岡本太郎の『自分の中に毒を持て』に出てくる、「自分を大切にしてはいけない」という考え方は

非常に脳裏に焼き付くフレーズだった。

 

現代に生きる僕らは自分の人生を活かすにはあまり恵まれた環境に居ないように思える。

なぜかというと、今って情報化社会だから普段からいろんな成功者の記事や動画に触れている。
一方で、世間的に芸能人や権力者のスキャンダルや誹謗中傷がニュースで流れる(その方がウケがいいから)。


そうすると否が応でも周りの目線を機にするし比較してしまうため、

どうしても他人軸で意思決定をし、他人軸で行動をするようになってしまう。

 

また、成功するためのモデルケースもどんどん舗装されていき、未知で冒険的で神秘的だった人生が

目的地別に進んでくれる高速バスに乗れば自動的に進んでいけるようなバスロータリーが設置され、

危険を冒さなくても、良くも悪くもない世界に到達できるようになった。

 

昔の方が社会はもっと厳然としていたと思う。

18世紀は貴族社会で身分による規制があったり、戦前は性別による格差もあった。

それがいいというわけではないが、生き抜くために皆自分の足で踏み分け、イバラに顔を引っかかれたり、猛獣とぶつかって息をのむ、というような真正の人生を経験していたのだろう。

そんな昔の偉人の話を読めば読むほど密度の濃い人生を生きていると感じてしまう。

 

環境が整備されてとても恵まれてきたが為に、僕らは自分を大切にしてはいけないと思う。

危険に身を投じることで血湧き肉躍る彩のある人生を描けると感じた美術鑑賞だったし、絵に目を奪われた數十分は危険を冒そう、冒険しようと決意するには十分な時間だった。

 

美術館巡りの後は、向ヶ丘遊園の森林浴を散歩しながら幼少期に昆虫採集をしたり秘密基地を作ったりハチに刺されたことを思い出し、少年回帰を体感した。

子どもは「気づき」とか「メリット」とか「リターン」などはどうでもよく、無条件に生きている。

 

社会人になって、鬼速でPDCAを回していく改善畑や戦略を立てて市場のパイを抑えていく現場の最前線に立っているうちに

24時間生産性を無意識に意識してしまう脳が出来上がってしまった。

 

自分の会社の同僚や上司を見ていると、自分以上に改善畑や戦略の荒野にどっぷり浸かっている人を観察できるのだが

如何せんそそられない。面白みが欠ける。ビジネスマンとしては脂が乗っていると思うものの人生の先輩としてはどうも今ひとつに感じてしまう。

 

人生を開ききってはいないのだ。

開ききる為には無条件に生きることが必要だ。

 

無条件に生きる為には、「頑張ることをやめる」「勝ち負けをつけない」「止めたくなったらやめればいい」のではないだろうか?

 

これらは仕事でいきなりトライすることは難しいが、遊びの中ではどうだろうか?

遊びは頑張る必要がないし、誰かと競うこともないので自分のペースで進めることができる。そして、飽きたらやめればいい。

 

他人軸から自分軸に引き戻す訓練にもなる。最高ではないか。

幸運にもコロナの影響もあって、外出自粛が浸透しオフィスに行かなくて良くなったし飲みに誘われても断る口実ができた。

遊びに時間もお金も注ぐことができる。

 

さて、今週はどんな遊びをしようか。

世の中を変えるのはいつも、子ども心を忘れない、大人げない大人であることを念頭に今週も歩んでいきたい。