隠居の暇つぶし

隠居の暇つぶし

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このブログでは、宇部市と山口県の紹介をしています。
そして、松下村塾関係の人物紹介です。

 

     

 

伊藤整一「いとうせいいち」海軍大将

生 涯
一八九〇年「明治二十三年」七月二十六日、福岡県三池郡高田
町に、父・梅太郎の長男として生まれる。

明治四十四年七月、海軍兵学校三十九期を、十五番で卒業。

海軍兵学校同期には、遠藤喜一、高木武雄、山県正郷、岡敬純
角田覚治、原忠一などがいる。

昭和二年五月、少佐で、アメリカに派遣。

アメリカに滞在していた時、レイモンド・スプルーアンスと深
い親交を結んだ。


伊藤が戦死した、坊ノ岬沖海戦の際、米指揮官として攻撃命令
を下したのは、スプルーアンスであった。

太平洋戦争開戦直前の、昭和十六年八月十一日に、軍令部次長
に就任し、開戦前の国策会議に参画。

開戦後、日米交換船で帰国した、海軍の駐米大使館武官・横山
一郎に対して、アメリカの最新動向に関する質問を、伊藤自身
が行ったというエピソードが残る。

最初、アメリカの太平洋方面の日本への反攻経路を、横山に質
問し、横山はサイパン・硫黄島等と回答した。

そして、伊藤は、この戦争が、どのように終結するかを検討す
るように、横山に依頼した。


横山は、じっくり検討した末、どのようにしても、日本の敗戦
は避けられず、うまくいっても、日清戦争以前に日本の状況は
戻ると、伊藤に報告した。

その報告の結果を聞いても、伊藤は怒ることはなかったので横
山は伊藤の人格に感心した。

昭和十九年六月、マリアナ沖海戦の敗北後、第三四一海軍航空
隊の岡村基春大佐から、航空特攻決行の意見具申を受けた第二
航空艦隊司令長官・福留繁中将は上京して、岡村の上申を伊藤
に伝えるとともに、中央における研究を進言した。

伊藤は、総長への本件報告と、中央における研究を約束したが
まだ体当たり攻撃を命ずる時期ではないという考えを述べた。


    

十二月二十三日、第二艦隊司令長官に補される。

昭和二十年四月五日、伊藤は、戦艦「大和」による、海上特攻
である、天一号作戦参加を命令される。

伊藤は、無謀な作戦になかなか納得しなかったが、伊藤の海軍
兵学校時代の後輩である、連合艦隊参謀長・草鹿龍之介中将か
ら「一億総特攻の魁となって頂きたい」と言われると「そうか
それならわかった」と、即座に納得した。


草鹿は、元々は大和の海上特攻に反対していたが、首席参謀神
重徳大佐が、連合艦隊司令長官・豊田副武に、勝手に、決裁を
とったために、草鹿が、伊藤の説得をしなければならない状態
だったのである。

この作戦を実行するにあたり、伊藤は草鹿に対し、作戦行動が
不可と判断した場合、現場司令官の判断で作戦を中止する、と
いう確約を取り、草鹿も、それを了承している。

このことが多くの命を救うことになる。


伊藤は、連合艦隊及び軍令部の指示を受けずに、現場司令長官
の判断で、作戦を中止したほぼ唯一の司令長官である。

昭和二十年四月一日、米軍が沖縄本島に上陸沖縄戦が始まる。

もはや、十分な航空戦力も艦船もない海軍は、米軍に対して特
攻による攻撃にしか活路を見いだせない状態だった。

連合艦隊は、沖縄の状況を打破すべく、航空機による、特攻作
戦「菊水一号作戦」と共に、五日に、第二艦隊に、航空機の援
護のない、艦船だけの海上特攻作戦を命じた。


伊藤は、自身の決断で、海軍兵学校を卒業したばかりの、少尉
候補生七十三名を下艦させた。

自分の息子と同じような年の若者を死なせたくなかったのであ
る。

同時に、病人や老兵など、約三十名も退艦させた。

そして、六日の午後、第二艦隊は出撃し、旗艦「大和」に搭乗
した伊藤は、一路沖縄に向かった。

米軍は、すでに「大和」の航路を把握していた。

七日正午、第二艦隊は、米軍に捕捉され、その瞬間、攻撃が始
まった。


米軍機の大群は波状攻撃を仕掛け、そのたびに、爆弾、機銃弾
魚雷が容赦なく「大和」に命中した。

伊藤は、それでも腕を組み、動じることなく、指揮はすべて部
下に任せ、報告を聞くだけだった。

午後二時、ついに「大和」が左に傾き、最後の瞬間が近づいて
いた。

伊藤は、「残念だったね。皆ご苦労様でした」と語ると、大き
な決断をする。


それは、「特攻作戦中止」であった。

伊藤は乗組員に「大和」から全員退艦するよう命じた。

そして、残存した艦艇に、海上の生存者を救助するよう指示を
出した。

この伊藤の決断により、約千七百名の将兵が、救われたのであ
る。


そして、「一緒に行きましょう」と、部下が伊藤にも退艦を促
したが、「私は残る。君たちが行くのは私の命令だ。おまえた
ちは若いのだ。」と答えたという。

退艦する幕僚たちは、後ろ髪を引かれる思いで、伊藤と別れの
握手をし「大和」を後にした。

その後、伊藤は、長官室に戻り、大爆発と共に、海に沈んでい
った・・・享年五十四歳。


   

伊藤整一は、敗戦の責任を負って戦艦「大和」と共に散った。

伊藤は、将来ある若者を残すことが、国のためであると信じて
彼らを退艦させたのだった。

そして戦後、伊藤に救われた兵士たちは社会で活躍し、日本の
再建を支えた。


ひとこと
作戦の際、第五航空艦隊司令長官であった宇垣纏中将は、出撃
中の第二艦隊に対して、途中まで護衛戦闘機隊を出撃させたが
その、護衛戦闘機隊の中に、伊藤の長男である、伊藤叡「あき
ら」中尉搭乗の零式艦上戦闘機も含まれており、父親の最期を
空から見送った。

伊藤は愛妻家であり、残される妻や子供に、「親愛なるお前様
に、後事を託して何事の憂いなきは此の上もなき仕合せと衷心
より感謝致候、いとしき最愛のちとせ殿」という遺書を残して
いた。


 

 

 

 

 

ガード下の靴みがき・・本名・王云希「台湾」

ガード下の靴磨きは、云希さんの演奏が、特に柔らかい音で
聴こえてきます。

歌詞の内容を理解され、制作された時代背景についても調査
して、演奏に臨まれたのではないかと推察しております。

靴磨きをテーマにしている曲は、多くの方々がご存じの「ガ
ード下の靴磨き」のほか、「東京シューシャインボーイ」と
いう曲もあります。

ガード下の靴磨きは一九五五年、そして、東京シューシャイ
ンボーイは一九五一の制作です。


〇 ガード下の靴磨き
紅い夕日が、ガードを染めて、ビルの向こうに沈んだら、街
にゃネオンの花が咲く、おいら貧しき靴みがき、ああ、夜に
なっても帰れない。

〇 東京シューシャインボーイ
ササーサ皆さん東京名物、とってもシックな靴みがき、鳥打
帽子に胸当てズボンの、東京シューシャインボーイ。

どちらの曲も良く耳にしました。

明るいメロディーの、東京シューシャインボーイが、映画の

挿入歌として使われたことで印象に残っています。

終戦直後の厳しい生活を、ルビーさんのメロディーの優しさ

を聴きながら思い出されております。

 

 

 

 

硫黄島の戦い。

 

硫黄島の戦い、一九四五年二月十九日から、同年三月二十七日は、第二次世界大戦末期に、小笠原諸島の硫黄島において、日

本軍とアメリカ軍との間で行われた戦いである。

アメリカ軍側の作戦名は、デタッチメント作戦 。





概 要
一九四四年八月時点での連合軍の戦略では、日本本土侵攻の準

備段階として、台湾に進攻する計画であった。

台湾を拠点とした後に、中国大陸あるいは、沖縄のいずれかへ

進撃することが予定された。

台湾の攻略作戦については、コーズウェイ作戦、土手道作戦と

して、具体的な検討が進められたが、その後に、陸海軍内で議

論があり、

同年十月には、アメリカ統合参謀本部が、台湾攻略の計画を放

棄して、小笠原諸島を攻略後に沖縄に侵攻することが決定された。

作戦名は、デタッチメント作戦「分断作戦」と名付けられたが

のちに、海兵隊史上、最も野蛮で高価な戦いと呼ばれることに

もなった。

作戦は、ダグラス・マッカーサーによるレイテ島の戦いや、ル
ソン島の戦いが、計画より遅延したことで、二回の延期を経て

一九四五年二月十九日に、アメリカ海兵隊の、硫黄島強襲が艦

載機と艦艇の砲撃支援を受けて開始された。

上陸から約一か月後の三月十七日、栗林忠道陸軍中将「戦死認

定後陸軍大将」を、最高指揮官とする日本軍硫黄島守備隊「小

笠原兵団」の激しい抵抗を受けながらも、アメリカ軍は、同島

をほぼ制圧。

三月二十一日、日本の大本営は、十七日に硫黄島守備隊が玉砕

したと発表する。

しかしながら、その後も、残存日本兵からの散発的な遊撃戦は

続いた。

最初アメリカ軍は、五日間の戦闘期間を想定していたが、四十

日間にわたる死闘の末、三月二十六日、栗林大将以下三百名余

りが最後の総攻撃を敢行し壊滅、これにより、日米の組織的戦

闘は終結した。

アメリカ軍の当初の計画では、硫黄島を五日で攻略する予定で

あったが、最終的に、一ヶ月以上を要することとなり、アメリ

カ軍の作戦計画を大きく狂わせることとなった。

いったん戦闘が始まれば、日本軍には、小規模な航空攻撃を除

いて、増援や救援の具体的な計画、能力は当初よりなく、守備

兵力二万九百三十三名のうち、九十五パーセントの、一万九千

九百名が戦死、あるいは戦闘中の行方不明となった。

一方、アメリカ軍は、戦死六千八百二十一名、戦傷二万一千八

百六十五名の、計二万八千六百八十六名の損害を受けた。

太平洋戦争後期の上陸戦での、アメリカ軍攻略部隊の損害「戦

死戦傷者数等」実数が日本軍を上回った稀有な戦いであり、フ

ィリピンの戦いや、沖縄戦とともに、第二次世界大戦の太平洋

戦線屈指の最激戦地の一つとして知られる。





日本軍の防衛計画

小笠原兵団の編成と編制

大本営は、アメリカ軍のパラオ諸島空襲など、パラオやマリア

ナの戦況が風雲急を告げるようになると、第三十一軍による小

笠原諸島の作戦指導は困難になる可能性が高く、小笠原にも作

戦の権限を与えるために、マリアナへの戦力増強が一段落した

一九四四年五月二十二日日をもって、他の在小笠原方面部隊と

併せて第百九師団を編成した。

隷下部隊としては、父島に配備されている、父島要塞守備隊等

硫黄島に配備されている「伊支隊」等、母島の混成第一連隊を

指揮下においた。

そして、第百九師団の師団長には、太平洋戦争緒戦の南方作戦

香港攻略戦で、第二十三軍参謀長として従軍、攻略戦後は、留

守近衛第二師団長として、内地に留まっていた栗林忠道陸軍中

将が任命され就任した。

栗林は五月二十七日に親補式に臨んだが、その席で東條英機陸

軍大臣兼参謀総長から「帝国と陸軍は、この重要な島の防衛に

関して、貴官に、全面的な信頼をかけている」と声をかけている。

栗林は第百九師団長として、小笠原諸島全体の最高司令官であ

り、司令部機能が充実している父島要塞で指揮を執るものと思

われていたが、六月八日に、日本本土から直路硫黄島に向かい

そのまま戦死するまで、一度も硫黄島を出ることはなかった。

栗林が硫黄島を司令部に選んだのは、大本営の分析通り、飛行

場のある硫黄島に、アメリカ軍が侵攻してくる可能性が高いと

いう戦略的判断と、指揮官は常に戦場の焦点にあるべきという

信念に基づくものであったとされている。

六月十五日に、アメリカ軍がサイパン島に上陸して、サイパン

の戦いが始まったが、日本軍守備隊は水際撃滅に失敗、アメリ

カ軍が内陸に向けて進撃していた。

マリアナでの決戦を策し「あ号作戦」を発動させていた海軍は

アメリカ軍の空襲で壊滅していた、マリアナの航空戦力に代え

てアメリカ軍機動部隊との決戦に向かう、第一機動艦隊「空母

九隻搭載機数約四百四十機」を支援させるため、第二十七航空

戦隊及び、横須賀海軍航空隊の一部で、八幡空襲部隊「指揮官

松永貞市中将」を編制し、硫黄島に進出させることとした。

八幡空襲部隊の戦力は、約三百機の予定であったが、硫黄島付

近の天候不良で進出が遅れて、六月十九日時点で、進出できた

のはわずか、二十九機に過ぎなかった。

その六月十九日に、日本第一機動艦隊とアメリカ第五十八任務

部隊が激突し、マリアナ沖海戦が始まったが、第一機動艦隊は

空母三隻と艦載機の大半を失う惨敗を喫して、マリアナ海域よ

り退避した。

マリアナ沖海戦で連合艦隊が惨敗を喫すると、大本営はサイパ

ン島の確保は困難という判断を下し、このままマリアナ諸島を

失って、小笠原諸島が最前線陣地となる危険性が高まった。

そこで大本営は、六月二十六日に、大本営直轄部隊たる小笠原

兵団を編成し、第三十一軍の指揮下から外して、第百九師団以

下の陸軍部隊を隷下に、第二十七航空戦隊以下の海軍部隊を指

揮下とし、その兵団長を、栗林に兼任させて小笠原諸島の防衛

を委ねることとした。

さらに大本営は、サイパン島奪回作戦の逆上陸部隊として準備

していた、歩兵第百四十五連隊「連隊長、池田増雄大佐」同じ

く、九七式中戦車「新砲塔」と、九五式軽戦車を主力とする戦

車第二十六連隊「連隊長、西竹一中佐」を、硫黄島に送り込む

ことを決めた。

その他の有力部隊として、秘密兵器である、四式二〇糎噴進砲

四式四〇糎噴進砲「ロケット砲」を装備する、噴進砲中隊「中

隊長横山義雄陸軍大尉」九八式臼砲を装備する各独立臼砲大隊

九七式中迫撃砲を装備する各中迫撃大隊、

 

一式機動四十七粍砲「対戦車砲」を装備する各独立速射砲大隊

も増派された。

また、硫黄島の従来より硫黄島に配置されていた「伊支隊」等

の各要塞歩兵隊の混成旅団への改編に着手し、七月までには混

成第二旅団として編成し、旅団長には父島要塞の司令官であっ

た大須賀が任じられた。

同様に、父島要塞の部隊も混成第一旅団に改編され、旅団長は

立花芳夫少将が任じられている。

あ号作戦には、間に合わなかった「八幡空襲部隊」であったが

六月二十四日に、ようやく戦闘機五十九機、艦爆二十九機、陸

攻二十一機の戦力を硫黄島に進出させた。

しかし、同日早朝に、機先を制して、第五十八任務部隊第一群

の空母「ホーネット」、「ヨークタウン」、「バターン」から発艦
した、アメリカ軍艦載機約七十機が、硫黄島を襲撃、八幡空襲

部隊は、エースパイロット坂井三郎も含めて、全戦闘機を出撃

させて迎撃したが、二十四機が未帰還となったのに対して、ア

メリカ軍の損害は、六機であった。

さらに「八幡空襲部隊」は、アメリカ軍艦隊に対して反撃を行

ったが、艦爆七機と戦闘機十機が未帰還となって、たった一日

で半分の戦力を失ってしまった。

その後も「八幡空襲部隊」の硫黄島への進出は進み、アメリカ

軍艦隊や、サイパンの飛行場やアメリカ軍地上部隊に対する攻

撃が続けられた。

アメリカ軍は、それに対抗して硫黄島への再三にわたる空襲を

行ってきたので「八幡空襲部隊」は次第に戦力を失い、最後は

七月四日に巡洋艦八隻と駆逐艦八隻による、艦砲射撃によって

作戦機を全機撃破されてしまった。

このため、アメリカ軍侵攻前に、硫黄島の航空戦力はほとんど

なくなってしまった。

硫黄島には、一九四〇年時点で、住民が千五十一人居住してい

たが、否が応でも戦争に巻き込まれてしまい、全島百九十二戸

の住宅は、三月十六日までの空襲で、百二十戸が焼失、六月末

には二十戸にまでなっていた。

栗林は住民の疎開を命じ、生存していた住民は、七月十二日ま

で数回に分けて父島を経由して日本本土に疎開した。





地下陣地の構築

地形を巧みに利用して構築された日本軍トーチカ、このような

陣地が島中に無数に構築された。

日本軍は、対上陸部隊への戦術として、タラワの戦いなど、上

陸部隊の弱点である、海上もしくは水際付近にいるときに戦力

を集中して叩くという、水際配置、水際撃滅主義を採用していた。

タラワ島では、この方針によってアメリカ軍の上陸部隊の三十

パーセントを死傷させる大打撃を与えたが、サイパンの戦いに

おいては、想定以上の激しい艦砲射撃に加え、日本軍の陣地構

築が不十分であったことから、水際陣地の大部分が撃破されて

しまい上陸部隊の損害は、十パーセントと相応の打撃を与えた

ものの、日本軍の損害も大きく、短期間のうちに戦力が消耗し

てしまうこととなった。

このサイパン島の敗戦は、日本軍に大きな衝撃を与えて、のち

の島嶼防衛の方針を大きく変更させた。

その後に作成されたのが、一九四四年八月十九日に参謀総長名
で示達された、島嶼守備要領であり、この要領によって日本軍

の対上陸防衛は、従来の、水際配置、水際撃滅主義から、海岸

線から後退した要地に、堅固な陣地を構築し、上陸軍を引き込

んでから叩くという、後退配備、沿岸撃滅主義へと大きく変更

されることとなった。

硫黄島においても、栗林が着任前には、前軍司令官の小畑の指

示もあって、従来の、水際配置、水際撃滅主義による陣地構築

が行われていたが、栗林は、六月八日に硫黄島に着任するとく

まなく島内を見て回り、硫黄島の地形的特質を緻密に検討して

サイパン島の陥落前の六月十七日には、従来の水際配置、水際

撃滅主義を捨て、

主陣地を水際から後退させて、縦深陣地を構築し、上陸部隊を

一旦上陸させたのちに、摺鉢山と北部元山地区に構築する複廓

陣地で、挟撃して、大打撃を与えるといった攻撃持久両用作戦

をとることとし、師団長注意事項として、全軍に示達された。

この栗林の方針転換は、サイパン島の陥落によって、方針を転

換した、大本営に先んじるものであった。

なお、ペリリューの戦いにおいて、アメリカ軍を持久戦術で苦

しめた、中川州男陸軍大佐も、一九四四年七月二十日に、大本

営が戦訓特報第二十八号によって通知した、サイパン島の戦訓

を活かして、栗林とほぼ同時期に縦深陣地を構築し、圧倒的優

勢なアメリカ軍を、二か月以上も足止めし多大な出血を強いて

いる。

栗林は、アメリカ軍を、内陸部に誘い込んでの、持久戦や遊撃

戦「ゲリラ」を新戦闘方針とし、六月二十日には、そのための

陣地構築を、伊支隊に命じた。

しかし、この栗林の方針転換に対しては、飛行場の確保を主目

的とする、南方諸島海軍航空隊司令の井上左馬二海軍大佐らと

従来の水際配置、水際撃滅主義に拘る、一部の陸軍幕僚から反

対意見が出た。

特に第百九師団の参謀長堀静一大佐は、陸軍士官学校の教官を

していたこともあり、八十年にも渡って日本軍が研究してきた

水際配置、水際撃滅主義に固執し、混成第二旅団長の大須賀も

海軍や堀の意見に賛同した。

栗林は、頑迷な海軍と一部の陸軍士官に対して失望し、士官は

バカ者か、こりごりの奴ばかりだ、これでは、アメリカといく

さはできない、と、副官にぼやいていたが、八月中旬の陸海軍

による協議において、栗林が妥協し、一部の水際、飛行場陣地

構築が決定された。

この妥協によって、栗林の作戦計画が不徹底となったという指

摘に対して、第百九師団参謀の堀江芳孝少佐は、栗林中将自身

は持久戦「後方・地下陣地構築」方針は、一切変更しておらず

海軍が資材を提供してくれるなら、一部陸軍兵力でこれを有効

活用できる、水際陣地は、敵の艦砲射撃を吸引する偽陣地的に

使用できるなどと、栗林が計算した上での妥協であったと証言

している。

海軍側は一万二千トンものセメントの提供を提案したが、結局

送られてきたセメントは三千トンに止まった。

海軍には妥協した栗林であったが、軍司令官に公然と反論した

堀や大須賀に対しては、軍内の統制を保つためにも看過するこ

となく、十二月には、大須賀を更迭し、代わりに陸軍士官学校

同期で歩兵戦の神の異名をもつ、千田貞季少将を呼び、また堀

も更迭して、高石正大佐を参謀長に昇格させた。

他にも栗林は、自分の方針に従わない参謀や部隊指揮官らを更

迭し、その人数は十八人にもなった。

この強引な人事もあって、硫黄島の陸軍内の統制は保たれるこ

ととなった。

栗林中将は後方陣地および、全島の施設を地下で結ぶ、全長十

八キロメートルの坑道構築を計画、設計のために、本土から鉱

山技師が派遣された、兵員に対して時間の七割を訓練、三割を

工事に充てるよう指示した。

硫黄島の火山岩は非常に軟らかかったため、十字鍬や円匙など

の手工具で掘ることができた。

また、司令部、本部附のいわゆる事務職などを含む全将兵に対

して陣地構築を命令、工事の遅れを無くすため、上官巡視時で

も作業中は一切の敬礼を止めるようにするなど、指示は合理性

を徹底していた。

そのほか、最高指揮官「栗林中将」自ら島内各地を巡視し、二

万一千名の全将兵と顔を合わせ、また歩兵第百四十五連隊の軍

旗を兵団司令部や連隊本部内ではなく、工事作業場に安置させ

るなどし、将兵のモチベーション維持や軍紀の厳正化にも邁進

した。

しかしながら、主に、手作業による地下工事は、困難の連続で

あった。

激しい肉体労働に加えて、火山である硫黄島の地下では、防毒

マスクを着用せざるを得ない硫黄ガスや、三十度から五十度の

地熱にさらされることから、連続した作業は、五分間しか続け

られなかった。

また、アメリカ軍の空襲や艦砲射撃による死傷者が出ても、補

充や治療は困難であった。

汗の一滴は血の一滴を合言葉に、作業が続けられたが、病死者

脱走者、自殺者が続出した。

坑道は、深い所では、地下十二メートルから、二十メートル以

上、長さは、摺鉢山の北斜面だけでも、数キロメートルに上った。

地下室の大きさは、少人数用の小洞穴から、三百人から四百人

を収容可能な、複数の部屋を備えたものまで、多種多様であった。

出入口は、近くで爆発する砲弾や爆弾の影響を、最小限にする

ための、精巧な構造を持ち、兵力がどこか一つの穴に閉じ込め

られるのを防ぐために、複数の出入口と、相互の連絡通路を備

えていた。

また、地下室の大部分に硫黄ガスが発生したため、換気には細

心の注意が払われた。

栗林中将は、島北部の北集落から、約五百メートル北東の地点

に兵団司令部を設置した。

司令部は地下二十メートルにあり、坑道によって接続された各

種の施設からなっていた。

島で二番目に高い、屏風山には、無線所と気象観測所が設置さ

れた。

そこからすぐ南東の高台上に、高射機関砲など一部を除く硫黄

島の全火砲を指揮する、混成第二旅団砲兵団「団長・街道長作

陸軍大佐」の本部が置かれた。

その他の各拠点にも、地下陣地が構築された。

地下陣地の中で、最も完成度が高かったのが北集落の南に作ら

れた主通信所であった。

長さ五十メートル、幅二十メートルの部屋を軸にした施設で壁
と天井の構造は、栗林中将の司令部のものとほぼ同じであり地
下二十メートルの坑道がここにつながっていた。

 

摺鉢山の海岸近くのトーチカは、鉄筋コンクリートで造られ壁

の厚さは一.二メートルもあった。

硫黄島の第一防衛線は、相互に支援可能な何重にも配備された

陣地で構成され、北西の海岸から、元山飛行場を通り、南東方

向の南村へ延びていた。

至る所にトーチカが設置され、さらに、西竹一中佐の戦車第二

十六連隊がこの地区を強化していた。

第二防衛線は、硫黄島の最北端である、北ノ鼻の南、数百メー

トルから、元山集落を通り東海岸へ至る線とされた。

第二線の防御施設は、第一線より少なかったが、日本軍は自然

の洞穴や地形の特徴を最大限に利用した。

摺鉢山は、海岸砲およびトーチカからなる、半ば独立した防衛

区へと組織された。

戦車が接近しうる経路には、全て対戦車壕が掘削された。

摺鉢山北側の地峡部は、南半分は摺鉢山の、北半分は島北部の

火砲群が照準に収めていた。

一九四四年末には、島に豊富にあった黒い火山灰を、セメント

と混ぜることで、より高品質のコンクリートができることが分

かり硫黄島の陣地構築はさらに加速した。

飛行場の付近の海軍陸戦隊陣地では、予備学生出身少尉の発案

で放棄された、一式陸攻を地中に埋めて地下待避所とした。

アメリカ軍の潜水艦と航空機による妨害によって、建設資材が

思うように届かず、また上述の通り、海軍側の強要により到着

した資材および構築兵力を、水際・飛行場陣地構築に割かざる

を得なかったために、結局坑道は、その後に追加された全長二

十八キロメートルの計画のうち、十七キロメートル程度しか完

成せず、

 

司令部と摺鉢山を結ぶ坑道も、残りわずかなところで未完成の

ままアメリカ軍を迎え撃つことになったが、戦闘が始まると地

下陣地は所期の役割を十二分に果たすことになる。

のちに、栗林が築き上げたこの防御陣地に、多大な出血を強い

られることとなった、硫黄島上陸部隊の指揮官である第五十六

任務部隊の司令官ホーランド・スミス海兵中将は、防御陣地と

栗林による部隊の配置を以下のように評した。

栗林の地上配備は、私「スミス」が、第一次世界大戦中に、フ

ランスで見た、いかなる配備より遥かに優れていた。

また、観戦者の話によれば、第二次世界大戦における、ドイツ

国防軍の配備をも凌いでいた。

 

   


〇 ペリリュー島の戦い
 

ペリリューの戦いは、日本兵一万人が、米兵五万人を迎え打ち
その戦況は熾烈を極めました。

島の規模は小さく、米国の海兵連隊は圧倒的な兵力で、当初二
~三日間で決着をつけるつもりでいました。

しかし、日本軍は、実に、ここで七十二日もの間、必死に戦い
抜いたのです。

日本軍守備隊長を務めたのは、中川州男「くにお」という陸軍
大佐でした。

結果的に見れば、日本軍は玉砕、中川も自刃したとはいえ、二
か月以上に及ぶ戦闘に耐え抜き、敵軍を著しく消耗させたのは
この中川の、卓越したリーダーシップによるものでした。

今回は、日本人には、ほとんど知られていない、この中川州男
という名将にスポットを当ててみたいと思います。

中川州男は、明治三十一年に熊本で生まれました。

陸軍士官学校を卒業し、陸軍歩兵少尉に任官の後は、歩兵第四
十八連隊中隊長などを歴任。


昭和十二年盧溝橋事件が勃発、シナ軍との全面戦争に突入する
と、中川は、野戦指揮官として手腕を発揮し、その功績によっ
て陸軍大学校に学び、陸軍大佐へと昇進します。

歩兵第二連隊長となった中川は、連隊に所属する第十四連隊が
満洲から、日本の統治下にあったパラオ諸島に配属されたのに
伴い、ペリリュー島守備隊長に就任することになります。





〇 想定外の現実に対し、中川はどう立ち向かったか。

米軍がペリリュー島へと上陸作戦を開始したのは、その翌年の
一九四四「昭和十九」年九月のことでした。

中川は陸軍大佐です。

島での戦いに的を絞って、訓練を重ねた米国の海兵連隊と、ま
ともに交戦すれば勝ち目がないことを知っていました。


驚くべきことですが、それまでの日本軍には、島での交戦を想
定した戦略や戦術の蓄積は全くありませんでした。

同年、日本の生命線であるサイパン島が陥落し、日本本土が米
軍の攻撃の照準に入るまで、日本軍には島嶼「とうしょ」戦と
いう発想がなかったのです。

大東亜戦争まで、日本陸軍の一貫した敵国はソ連であり、太平
洋で、アメリカと一戦を交えるといった発想自体が、そもそも
ありませんでした。

中川は、熟考を重ねて戦略を練り上げていきました。


実は、中川は満洲からパラオに配置換えになった時、大連の港
を出発する直前、参謀本部で島嶼戦について、一人で研究して
いた、堀 栄三の話を聞き、それを詳細にメモしていました。

そこで、中川が初めて耳にしたのが、艦砲射撃という概念でし
た。

米軍の軍艦の大砲は、陸軍のそれとは全く比較にならないほど
強烈な破壊力がありました。


軍艦一隻の大砲は、陸軍の兵力の五個師団にも相当し、その威
力は厚さ二メートル以下のコンクリートは、たちまち吹き飛ば
されてしまうというのです。

パラオに移る直前に知らされたこの現実は、中川にとっては衝
撃だったに違いありません。

事実、米軍はペリリュー島に軍艦を寄せ、中川隊の五倍の先鋭
部隊を投入してきました。

力の差は歴然でした。


では、中川は、どのようにしてこれに対峙したのでしょうか。

中川がまずやったのは、音を立てずに、米軍の上陸をじっと待
ち構えることでした。

米兵の多くが上陸してしまえば、米軍は下手に艦砲射撃はでき
ないと読んだのです。

この読みは当たりました。


戦闘に当たって中川は、五百以上ともいわれる、島内の洞窟に
坑道を掘って、島全体を要塞化していました。

そして、米軍の上陸とともに徹底したゲリラ戦法を展開したの
です。





〇 硫黄島の戦いに引き継がれた、ペリリューのゲリラ戦法

この戦いによって、日本軍は僅か一連隊にして、米軍の海兵連
隊や陸軍歩兵師団に大打撃を与え交替を余儀なくさせました。

これは特筆に値することです。

兵隊の決死の努力は言うに及ばず、しっかりした指揮官がいな
ければ、ここまでの戦いはできなかったでしょう。

中川が主導したゲリラ戦法は、硫黄島の戦いにも応用されるこ
とになります。


ペリリューの戦いの時、新聞やラジオで毎日のように、その激
戦ぶりを報道しました。

天皇陛下も、島の兵士たちをいたく気遣われ、軍事面での特別
の功労があった兵士たちに贈られる、嘉賞「かしょう」を、中
川隊に十一回も出されています。

実際に、兵士たちに届いたのは、二回まででしたが、生還者の
話では、この嘉賞は兵士たちを大いに奮い立たせたようです。

陛下が見守ってくださっていると思えば、千人力、万人力を得
た思いだったことでしょう。


大東亜戦争が終結した後も、三十四名の兵士たちが、二年間洞
窟内で生き延びました。

アメリカ軍が残した食糧で食い繋ぎ、米軍兵士の鉄砲を手にし
て、ゲリラ戦を続けていたことも、日本軍の精神力を物語るも
のです。



〇 与えられた条件をすべて生かして戦い抜いた陸軍の名将

このペリリューの戦いをとおして、私たちは、当時日本軍が抱
えていた、様々な問題点を知ることができます。

島嶼戦を続けるための海兵隊を、組織しなかったこともそうで
しょう。

サイパン島が陥落するまで島の守りに無頓着だったことが、日
本を敗戦に追い込む引き金となりました。

大正時代から準備していた、アメリカとの差が大きかったので
す。


だが、一方で、そういう負の一面に立ち向かった将がいた事実
を忘れてはいけません。

中川は、まさにそういう人でした。

中川は、人一倍の胆力の持ち主だっただけではありません。

戦いに臨むに当たっては、徹底して戦略や戦術を練り上げ、僅
かの期間に準備をしたのです。


そして、現に兵数、物量ともに劣る、絶対的に不利な条件にも
関わらず、敵が予想しなかった、驚くべき互角の戦いを展開し
たのです。

そこに、将として、本来あるべき姿を見るのは、私だけではな
いでしょう。



〇 玉 砕

十一月二十四日には、ついに司令部陣地の兵力弾薬も、ほとん
ど底を突き、司令部は玉砕を決定、中川が自決した後、玉砕を
伝える「サクラサクラ」の電文が本土に送られ、翌朝にかけて
根本甲子郎大尉を中心とした、五十五名の残存兵による「万歳
突撃」が行われた。

こうして日本軍の組織的抵抗は終わり、十一月二十七日、つい
に米軍は、ペリリュー島の占領を果たした。

中川は、戦死後に二階級特進し、陸軍中将に任ぜられた。





〇 余 談

日本軍一万人に対し、アメリカ軍は四万五千人。

火器の差は、百倍もある劣勢の中、ペリリュー島の住民は、中
川大佐へ、共に戦いたいと懇願した。

だが、帝国軍人が、土人と共に戦えるか、と一喝、島民は落胆し、船で、パラオ本土まで運ばれることになった。

もう泳いで戻るのは難しくなった頃、中川大佐や日本兵たちが
ジャングルから、浜辺に姿を見せ笑顔で手を振って見送った。

自分たちの命を救うために・・・


第二次世界大戦で、最激戦区となったペリリュー島は、島の住
人の死亡者ゼロという奇跡の戦いの場でもあった。

大佐の墓碑に、こう刻まれている。

〇 人は憎しみでもっては戦えない。

  愛のために戦うのである。


 

     


一九四五年六月、沖縄の地下に掘られた洞穴で、一人の軍人が
自ら命を絶ちました。

海軍司令官の大田実海軍中将。

自決直前に、海軍次官にあてた電文では、沖縄戦の惨状と沖縄
県民の献身をつづり、「後世特別の配慮を」と訴えました。



〇 自決前、大田中将が海軍次官にあてた電文「全文」

現代語訳
昭和二十年六月六日 二十時十六分。

次の電文を、海軍次官に、お知らせ下さるよう取り計らって下
さい。


沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告されるべきですが
県には、すでに通信する力はなく、三十二軍「沖縄守備軍」司
令部も、また通信する力がないと認められますので、私は、県
知事に頼まれた訳ではありませんが、現状をそのまま見過ごす
ことができないので、代わって緊急にお知らせいたします。

沖縄に敵の攻撃が始って以来、陸海軍とも防衛のための戦闘に
専念し、県民に関しては、ほとんど、かえりみる余裕もありま
せんでした。


しかし、私の知っている範囲では、県民は青年も壮年も全部を
防衛のためかりだされ、残った老人、子供、女性のみが、相次
ぐ砲爆撃で、家や財産を焼かれ、わずかに体一つで、軍の作戦
の支障にならない場所で、小さな防空壕に避難したり、砲爆撃
の下でさまよい、雨風にさらされる貧しい生活に甘んじてきま
した。

しかも、若い女性は進んで軍に身をささげ、看護婦、炊飯婦は
もとより、防弾運びや、切り込み隊への参加を申し出る者さえ
もいます。


敵がやってくれば、老人や子供は殺され、女性は後方に運び去
られて暴行されてしまうからと、親子が行き別れになるのを覚
悟で、娘を軍に預ける親もいます。

看護婦にいたっては、軍の移動に際し、衛生兵がすでに出発し
てしまい、身寄りのない、重傷者を助けて共にさまよい歩いて
います。

このような行動は、一時の感情にかられてのこととは思えませ
ん。


さらに、軍において、作戦の大きな変更があって、遠く離れた
住民地区を指定された時、輸送力のない者は、夜中に自給自足
で雨の中を黙々と移動しています。

これをまとめると、陸海軍が沖縄にやってきて以来、県民は最
初から最後まで、勤労奉仕や物資の節約をしいられ、ご奉公を
するのだという一念を胸に抱きながら、ついに「不明」報われ
ることもなく、この戦闘の最期を迎えてしまいました。


沖縄の実績は言葉では形容のしようもありません。

一本の木、一本の草さえ、すべてが焼けてしまい、食べ物も六
月一杯を支えるだけということです。

沖縄県民は、このように戦いました。

県民に対して、後世特別のご配慮をして下さいますように。

 


     

〇 大田 実、一八九一年、千葉県生まれ。

海軍の中でも陸上戦を主に担当。

一九四五年一月、沖縄方面根拠地隊の司令官になり、沖縄県豊
見城「とみぐすく」市の、海軍司令部壕「ごう」を拠点に四月
からの、米軍との地上戦を指揮。

日本軍の情勢が厳しくなった六月六日、沖縄県民の献身的な戦
いぶりを記し、配慮を求めた「沖縄県民斯(か)ク戦ヘリ。


県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」との、海軍次官
宛ての電文を発出。

六月十三日、幕僚とともに司令部壕で自決した。

五十四歳だった。

死後、少将から中将に昇進。


辞世の句
大君の御はたのもとに死してこそ人と生まれし甲斐ぞありけり



 

     


東部ニューギニア戦線
戦時中、兵隊達に「ジャワは極楽ビルマは地獄、死んでも帰れ
ぬニューギニア」と言われたニューギニアの戦いは、大東亜戦
争で、将兵達がなめた、ありとあらゆる惨苦が全て凝縮してい
る戦場といわれ、約八千の栃木県民が、そこで亡くなった。

昭和十七年、オーストラリアを拠点とする連合軍の反攻を封じ
るため、日本の南海支隊が、オーストラリア領のニューギニア
現在はパプアニューギニアの、ブナ地区に上陸、首都ポートモ
レスビーの攻略をめざしたものの、連合軍の反撃により、ブナ
地区で壊滅。

以後、連合軍は、ニューギニアの海岸伝いに、フィリピンをめ
ざして進撃を開始した。


これに対し日本側は、新たに朝鮮駐屯の第二十師団、宇都宮で
編成され、多数の栃木県民が所属していた、第四十一師団、五
十師団を主力とする、第十八軍「猛集団」を編成し、ニューギ
ニアの防衛を担当させた。

以後、十八軍は、所在の海軍部隊と協力しつつ、ラエ・サラモ
ア、フィンシハーフェン、グンビ岬、アイタペと、各地で連合
軍と激闘を繰り広げた。

ニューギニア戦の特色は、相次ぐ転進と餓え、そして、病につ
きるとされている。


十八軍が、相次ぐ戦闘と後退の間に踏破した距離は、およそ二
千キロメートル。

その中には、未開のジャングルやセピック河の大湿原、サラワ
ケットやフィニスティール山脈など、標高三千~四千五百メー
トルの山々が含まれていた。

更に昭和十九年四月、後方基地であるホーランディアを連合軍
に奪われ、その完全な包囲下におかれてからは、内地からの一
切の補給が途絶えて、将兵達は、芋・サゴ椰子澱粉や虫や木の
根など、あらゆる動植物を、口にせざるを得ませんでした。

そして、体力の衰えた将兵達に、マラリアや赤痢など病気が追
い討ちをかけていったのです。


そうした苦境にありながらも、昭和十九年七月、十八軍はアイ
タペの連合軍に総攻撃をかけ、その後も、ウエワク・山南・セ
ピック地区を長期にわたって確保し終戦まで戦い続けました。

ニューギニア戦に動員された日本軍約十五万のうち、終戦時に
生き残ったのは、わずか一万名余にすぎませんでした。

これらの将兵が、まがりなりにも、生き残ることができたのは
ニューギニアの現地住民のおかげです。

ニューギニアを舞台とした、日本軍と連合軍の死闘は、多数の
パプアニューギニア住民を巻き込んで行われました。


連合軍による、無差別な砲爆撃は、広範囲に被害を及ぼし、ま
た、オーストラリア軍による、住民の軍夫や兵士としての強制
的な徴募は、それまでの、パプア住民に対する、過酷な差別意
識を融和した一方、現在も補償問題を残しています。

また、補給もなく、餓え苦しみながら敗走する、日本軍が通過
した村々や畑は荒らされ、山南やセピック地区における日本軍
による「現地自活」も、事実上、村々の畑の作物や財産である
サゴ椰子の供出に拠ったものであることから、住民の生活を圧
迫しました。

しかし、オーストラリアによる、植民地支配を嫌う多くの住民
特に、セピック河流域や山南地区の人々などは、餓えた日本兵
を村に住ませ、食料を与えるなど手厚く協力してくれました。


そうした日本との交流の中で、もっともニューギニアの人々に
知られているエピソードが、柴田幸雄中尉と、パプアニューギ
ニア首相、マイケル・ソマレ氏の話です。

     

〇 カラオ湖畔の学校・柴田中尉とソマレ首相

昭和十九年、船舶工兵第九聯隊「上陸用舟艇部隊」の柴田幸雄
中尉は、現地住民宣撫の任を帯びて、ウエワク東方にあるカウ
プ「コープ」に赴任し、カウプ一帯の部族を、日本軍に協力さ
せるとともに、

白人支配からの独立と、日本の通過部隊から、村を守るための
自治組織「カウト政庁」樹立を指導しました。


また、住民への感謝の気持ちと、将来の独立にそなえた教育を
志し、酋長の賛同を得て学校をたて、子供たちに、数や初歩の
日本語、英語の教育を行いつつ、植民地からの独立を説きまし
た。

その教え子のひとり、当時八歳のマイケル・ソマレ少年は、後
に、パプアニューギニア独立運動に身を投じ、一九七五年「昭
和五十年」、独立後初代首相に就任した。

キャプテン・シバタの教えによって、独立することができたと
考えたソマレ首相は、大使館を通じて、当時宇都宮市で飲食店
を営んでいた柴田氏を探しあて、昭和六十年、念願の再会を果
たしました。


 



横川元代議士襲撃事件とは、一九五二年八月七日に埼玉県比企
郡大河村「現小川町」で発生したテロ事件。

事件の概要
一九五二年八月七日、日本共産党の独立遊撃隊「中核自衛隊か
ら選抜された精鋭部隊」十三人が、元代議士で、武蔵野銀行取
締役の横川重次宅を襲った。

横川重次本人に、世直し状なる脅迫状を突きつけて、体中を斬
りつけて重傷を負わせた。

また別の一団が、家政婦や横川の次男を縛って、金目の物を探
したが、肝心の金庫が開かず、そのまま逃走した。



その後の顛末
その後の捜査で、犯行に至る経緯を記した手記や文書が発見さ
れ、日本共産党の計画的犯行であることが判明した。

犯人の一人は、「横川は元代議士で、広大な山林を所有してい
る封建地主であり、人民の敵であるから殺して金を奪い、その
金は、日共の活動資金にする」予定であったと供述した。

第一審の浦和地裁では、検察側が遊撃隊長に無期懲役、被告全
員に有罪を求刑した。

判決では、隊長に懲役二十年など、「火炎瓶投擲に関して無罪
となったため」執行猶予がついた、一部の判決を除き大半の被
告が実刑となった。


また、裁判の判決で、この事件が、日本共産党関係の暴力的活
動であったことと、二十八年四月、革命説実現のための資金集
め目的の強盗であったことを認定している。

なお、控訴審の東京高裁では、隊長に懲役十五年などの減刑判
決が下り、最高裁の棄却により確定した。


 

 



八鹿高校事件「ようかこうこうじけん」は、一九七四年「昭和
四十九年」十一月二十二日に、兵庫県立八鹿高等学校で発生し
た、部落解放同盟の同盟員が、集団下校中の教職員約六十名を
学校に連れ戻し、約十三時間にわたって、監禁・暴行し、教師
四十八名が負傷、内二十九名が重傷、一名が重体となった事件
である。「略称は、八高事件「はちこうじけん」

概 略
公立高校内に、既に部落問題研究会があるにも関わらず、部落
解放同盟を支持する生徒が、部落解放研究会を設立しようとし
た。


教師側は、これを拒否したため、話し合いを求めてハンガース
トライキに入った生徒の支援に訪れた、部落解放同盟員らが暴
力的衝突を起こした事件。

裁判調書に基づく内容
刑事裁判では部落解放同盟の被告人十三名が、拉致・監禁「致
傷」・強要・傷害の罪で起訴され、全員の有罪が確定した。

民事裁判は、三千万円の損害賠償判決で決着したが、糾弾に荷
担した、兵庫県と県教育委員会は被害者全員に謝罪し慰謝料を
支払った。


解放同盟兵庫県連も、二十一年間の遅延利息を含む、慰謝料全
額の賠償に応じたが、判決については「差別弾圧判決」である
と非難し、自らの非を認めていない。

但馬地方では、この事件以前から部落解放同盟の運動に従わせ
るために、自治体や学校、そして部落解放同盟の過激な運動に
反対する、日本共産党組織を含む、勢力への糾弾・暴力・襲撃
事件が起きており、一連の関係事件八件、被害者二百名として
延べ二十六名「実人数十四名」の解放同盟員が起訴された。

それらを総称して、八鹿・朝来事件、八鹿・朝来暴力事件と呼
ぶこともある。


部落解放同盟の立場からは、八鹿差別事件、八鹿高校差別事件
八鹿高校差別教育事件などと呼び、この事件の裁判を「差別裁
判」「八鹿高校差別裁判」と呼ぶ。

事件当時中華人民共和国では、文化大革命が進行中であり、八
鹿高校事件における部落解放同盟員や、解放研生徒らの暴力行
為は「文化大革命の紅衛兵」になぞらえられることもある。

経過概略
但馬地方では、部落解放同盟支部が、昭和四十八年に結成され
差別糾弾闘争と行政闘争が活発化した。

一方、それを批判する動きも現れた。


そのような状況下の昭和四十九年一月、同和地区在住の八鹿高
校女子生徒と交際をしていた、男性の父親が「あの部落に出入
りしていたら、お父さん、お母さんは、地区の中でも人に気が
ねしなければならない。

Nさんを諦めてほしい。

同和行政は口でこそ言っているが、本物ではなく、部落の人同
士の結婚を前提として、行われているにすぎない、といった手
紙を、長男に送っていた事実が、長男により明らかにされた。

いわゆる結婚差別事件。

なお、この事件に際しては、部落解放同盟兵庫県連合会が、糾
弾闘争費として、行政に三千万円を要求し、千五百万円の支給
を受けた。


この出来事が,結婚差別事件として問題になり、それと前後し
て、但馬地方の別の高校でも、女生徒が同じ理由で失恋し家出
後に奈良で凍死するという事件が発生した。

こうした事件の発生を受け、昭和四十九年五月、八鹿高校の部
落出身生徒らが、日本社会党系統・部落解放同盟系統の部落解
放研究会「以下、解放研と書くことがある」の設置を高校に申
請。

この解放研とは、生徒の自主的な要求で運営されるものではな
く、また教師の指導のもとに運営されるものでもなく、第一に
部落解放同盟の指導を受け、確認・糾弾の行動隊として運営さ
れる組織であって、そのことは、部落解放同盟の昭和四十九年
度運動方針にも明記されていた。


したがって当初、校長と教頭は、職員会議の決定に基づき、解
放研の設置を認可しなかったが、主犯丸尾良昭を含む、部落解
放同盟員らや解放研生徒らにより、長時間の糾弾を受け、心身
ともに限界に達する状況の中で、

職員会議の決定を無視して解放研の設置に認可を与えた。

しかし、八鹿高校には、既に生徒自治会と職員会議で認められ
た部落問題研究会「共産党系の組織」が存在しており、一般教
員は、部落解放研究会の設置を認めなかった。

部落解放同盟は、こうした一般教員の対応を差別として批判し
た。


なお、当時八鹿高校普通科の一年生だった、解放研メンバーの
女性によると、解放研も、三分の一くらいは、一般地区の生徒
であったという。

十一月十八日朝には、八鹿町内にいわゆる解放車が入り、八鹿
高校糾弾を叫んだり、解放歌を流したりするようになり、八鹿
高校の正門前では、部落解放同盟員らが、八鹿高校教職員に対
する、非難のビラを配っていた。

不穏な空気を察知した教職員たちは、十一月二十日から集団で
城崎の民宿に宿泊し、自衛のために個人行動を避け、集団で登
校するようになった。

十一月二十一日、教職員たちは城崎で対策会議を開き、その結
果「部落解放同盟による動員状況から、二十二日に糾弾が起き
ることは必至」と判断。


しかし、二十二日当日の行動については意見の一致を見ず、一
応登校するだけはして、その後の判断は同和教育室主任に一任
することとした。

十一月二十二日朝、教職員たちが集団登校すると、二台の解放
車に、ぴったり付きまとわれ「この教師たちの笑顔はいつまで
続くんでしょうか」などと、意味深な放送をされた。

このとき、ビラを配っていた部落解放同盟員が教師と揉めた際
他の部落解放同盟員が割り込んで「今は行かしたれ」と仲間を
制止したり、別の部落解放同盟員から「お前ら、今日は楽にし
たるわな」と脅されたりし、リンチを予測させる異様な雰囲気
が漂っていた。


教職員たちが、八鹿高校内に到着すると、校内にはゼッケンや
鉢巻をした、部落解放同盟員十数名が入り込み、校庭には糾弾
集会用の投光器が据えつけられ、糾弾会の準備が整っていた。

このため、同和教育室主任の提案で、ただちに職員会議が開か
れ、二十二日の授業は中止して、教職員全員で集団下校するこ
とが決まった。

午前九時四十分から四十五分頃のことである。

それに対し、解放同盟や兵庫県教組本部などによって結成され
ていた、八鹿高校差別教育糾弾共闘会議側は、ピケット・ライ
ンを張って制止した。

共闘会議側は、教師らを暴力で校内に連れ戻し、体育館などで
糾弾会として、自己批判書を書かせる事態に発展した。

このとき、教師側に負傷者が出た。


体育館や解放研部室などでは、自己批判書を書くまで以下のよ
うな状況が繰りひろげられた。

解放研部室内で、右構成員らは、教諭らをそれぞれ数名で取り
囲み、殴打、足げにし、首を絞めつけ、バケツの汚水を浴びせ
牛乳や飲み残しの茶を首筋に注ぎ、南京錠で頭部を殴打し、足
を踏みつけ、煙草の火を顔面に押しつけるなどし、殺してやる
二階の窓から落としてやる、などと脅迫して、自己批判書等の
作成を強要した。

「八鹿・朝来暴力事件、検察官論告要旨」より

下校していた解放研以外の生徒たちは、部落解放同盟と解放研
生徒らによる、糾弾暴行事件発生を伝え救出を求める町内デモ
を決行、暴行を受ける教師たちの救出を訴えた。


この事件で、部落解放同盟側が採った糾弾の様式は、インディ
アン方式と称するもので、ターゲットの周りに糾弾者たちが環
を作り、ぐるぐる回り、拡声器を被糾弾者の耳元に寄せて罵声
を浴びせるというものである。

被害教師全員が、約十二時間四十五分にわたる監禁ののち、解
放されたのは、午後十時四十五分頃のことであった。

事件後、日本共産党支持・不支持を超えて、生徒を先頭に部落
解放同盟に対する、一万八千人参加という、大規模な町民抗議
集会が行われ、大半の町民も集会に参加して教職員側を支持。

部落解放同盟員らが多数逮捕された。


 

 

朗 報
安倍暗殺をゲラゲラ笑った!五十嵐えり!



オールドメディアが、死んでも批判しなかった五十嵐えりが
落選した。

安倍総理暗殺に対し、内心を素直に顔に出したが、政治信条
に対しての違いを表した事より、民主主義を否定する、テロ
リズム擁護と、人命の尊厳を一顧だにしない、心の貧しさが
見透かされた瞬間だった。

この落選は、心の底から笑える喜劇だ。

 

 



藤田ひかるさんの応援演説・「病人の為マイクなしで」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

     

 

      三人とも当選おめでとうございます。

 

 

 

 

 

 

金メダル一号のスノーボード木村選手に、お祝いの電話。

 

 

 

 

 



元津事件「もとつじけん」は、一九七四年九月八日から、同年
九月九日にかけて、兵庫県朝来郡朝来町「現在の朝来市」岩津
の路上で、部落解放同盟員の集団が、日本共産党の幹部たちを
監禁し、暴行・脅迫を加えた事件。

朝来事件とも呼ばれる。

経 緯
兵庫県南但馬地方「養父郡、朝来郡」には、二十二箇所「人口
約六千人」の被差別部落があったが、一九七三年七月、部落解
放同盟南但馬支部連絡協議会「略称・南但支連協」が結成され


各部落に部落解放同盟の支部が置かれ、さらに、一九七三年十
月、南但支連協青年部が発足した。

一九七三年十月二十八日、部落解放同盟兵庫県連合会沢支部長
が部落解放同盟南但馬青年行動隊を結成し隊長となった。

翌年一月頃、兵庫県職員が、子息に送った手紙の内容が部落差
別的であると糾弾され、一月下旬頃、この事件に対する糾弾闘
争本部が設置された。

その闘争委員会の委員長が、のちに八鹿高校事件の主犯となっ
た者であった。


これ以来、同地方では、差別事件の摘発やそれを梃子にした行
政闘争などが活発化した。

部落解放同盟の肝煎りによる、部落解放研究会が、朝来中学校
和田山中学校、和田山商業高等学校などに置かれる中、日本共
産党員の橋本哲朗「兵庫県教職員組合の朝来支部長、後の朝来
町長」は、

〇 糾弾会は、部落解放同盟による思想統制を招くもので許さ
  れない。

〇 糾弾会は、教師の人格の尊厳を侵す方法で行われている。


との理由で解放研の設置に反対し、部落解放同盟の確認会等に
出席しないよう教員たちに呼びかけ、部落解放同盟に批判的な
日本共産党系の部落問題研究者を、講演に呼ぶなどの活動を行
った。

一九七四年の七月から八月にかけて、朝来中学校で、部落解放
同盟員や解放研生徒による、同校教諭への確認、糾弾会が開か
れた。

これに対し橋本は、八鹿高校教諭で、日本共産党員の片山正敏
や、日本共産党町議会議員の支援のもとに、部落解放運動の統
一と、刷新をはかる、日高有志連合名義による、ビラを作成し
兵教組朝来支部組合員や、朝来郡内の一般世帯に配布した。


ビラの内容は、
朝来中学校の確認・糾弾会について、部落解放同盟を批判する
もので、この世の生き地獄・教師をリンチする・朝来中学校内

確認会、県連行動隊直轄下におかれた、朝来中学校の実態・・

くりひろげられる地獄絵図・教師を、恐怖のどん底におとしい
れ・・・などの文言が使用されていた。

部落解放同盟は、このような共産党や橋本らの行動に反発を強
め、ビラの配布や新聞折込を妨害し、橋本哲朗糾弾闘争を開始
した。

ただし、ビラ配布は糾弾の単なるきっかけに過ぎず、部落解放
同盟が、ビラ配布以前から、橋本糾弾を考えていたことは大阪
高裁でも認定されている。


一九七四年九月九日、部落解放同盟員四十人~五十人が、兵庫
県朝来郡朝来町の路上で、橋本など、部落解放同盟に批判的な
十名を取り囲み、

 

約十時間にわたり、割り木で殴り殺したろか・大根みたいに切

り刻んでやろか・差別者・糾弾するビラ撒いたやろ・一日で済

む思ったら大間違いだ・一週間でも十日でもやってやる。

 

などと怒号し、なおかつ左足を踏みつける・足を蹴る・小突く

などの暴力をふるい、同人らを不法に監禁した。

事件後も、橋本には耳鳴りや難聴などの障害が残った。

この事件は、「第一次朝来事件」とも呼ばれる。



兵教組朝来支部執行体制の刷新

一連の事件の発生後、兵教組朝来支部内では、橋本ら執行部が
解放同盟と敵対する方針をとり続けたことに対し、組合員から


の批判が高まり、事実上支部長を更迭され、支部執行体制が刷
新され、同支部は、兵教組本部の「部落解放同盟と協力して自
主的、民主的な同和教育を進める方針を支持する姿勢に転換し
た。


刑事判決
次回に紹介する八鹿高校事件、その他、一連の集団暴力事件の
公判と併合され審理された。

一九八三年十二月十四日、神戸地方裁判所は、橋本らが配布し
たビラについて、

この世の生き地獄等の記載は、解放同盟に対する批判の域を出て、それに対する恐怖心を、いたずらに起こさせ、ひいては被

差別部落出身者に対する差別意識を助長するもの、と述べ、橋

本の行動は、適切を欠くと認定しながらも、

 

解放同盟の抗議行動には行き過ぎがあり、可罰的違法性を認定

できると判断した。

その結、果被告人十三名全員に、懲役三年「執行猶予四年」か
ら、懲役六月「執行猶予二年」の有罪判決が下った。

この間、被告人一名が死亡。

一九八八年三月二十九日、大阪高等裁判所にて、検事・被告人
双方からの控訴棄却。

一九九〇年十一月二十八日、最高裁判所にて被告人からの上告
棄却。

被告人全員の執行猶予付き有罪が確定した。


民事判決
一九八五年十月三十日、被告四人に、総額約三百七十六万円の
支払いを命じる内容の一審判決が出た。

被告は大阪高等裁判所に控訴したが、一九九〇年三月二十二日
に棄却となった。

一九九二年七月十四日、最高裁判所は上告を棄却し、元利合計
約六百八十万円の支払いを被告に命じた。