
硫黄島の戦い。
硫黄島の戦い、一九四五年二月十九日から、同年三月二十七日は、第二次世界大戦末期に、小笠原諸島の硫黄島において、日
本軍とアメリカ軍との間で行われた戦いである。
アメリカ軍側の作戦名は、デタッチメント作戦 。

概 要
一九四四年八月時点での連合軍の戦略では、日本本土侵攻の準
備段階として、台湾に進攻する計画であった。
台湾を拠点とした後に、中国大陸あるいは、沖縄のいずれかへ
進撃することが予定された。
台湾の攻略作戦については、コーズウェイ作戦、土手道作戦と
して、具体的な検討が進められたが、その後に、陸海軍内で議
論があり、
同年十月には、アメリカ統合参謀本部が、台湾攻略の計画を放
棄して、小笠原諸島を攻略後に沖縄に侵攻することが決定された。
作戦名は、デタッチメント作戦「分断作戦」と名付けられたが
のちに、海兵隊史上、最も野蛮で高価な戦いと呼ばれることに
もなった。
作戦は、ダグラス・マッカーサーによるレイテ島の戦いや、ル
ソン島の戦いが、計画より遅延したことで、二回の延期を経て
一九四五年二月十九日に、アメリカ海兵隊の、硫黄島強襲が艦
載機と艦艇の砲撃支援を受けて開始された。
上陸から約一か月後の三月十七日、栗林忠道陸軍中将「戦死認
定後陸軍大将」を、最高指揮官とする日本軍硫黄島守備隊「小
笠原兵団」の激しい抵抗を受けながらも、アメリカ軍は、同島
をほぼ制圧。
三月二十一日、日本の大本営は、十七日に硫黄島守備隊が玉砕
したと発表する。
しかしながら、その後も、残存日本兵からの散発的な遊撃戦は
続いた。
最初アメリカ軍は、五日間の戦闘期間を想定していたが、四十
日間にわたる死闘の末、三月二十六日、栗林大将以下三百名余
りが最後の総攻撃を敢行し壊滅、これにより、日米の組織的戦
闘は終結した。
アメリカ軍の当初の計画では、硫黄島を五日で攻略する予定で
あったが、最終的に、一ヶ月以上を要することとなり、アメリ
カ軍の作戦計画を大きく狂わせることとなった。
いったん戦闘が始まれば、日本軍には、小規模な航空攻撃を除
いて、増援や救援の具体的な計画、能力は当初よりなく、守備
兵力二万九百三十三名のうち、九十五パーセントの、一万九千
九百名が戦死、あるいは戦闘中の行方不明となった。
一方、アメリカ軍は、戦死六千八百二十一名、戦傷二万一千八
百六十五名の、計二万八千六百八十六名の損害を受けた。
太平洋戦争後期の上陸戦での、アメリカ軍攻略部隊の損害「戦
死戦傷者数等」実数が日本軍を上回った稀有な戦いであり、フ
ィリピンの戦いや、沖縄戦とともに、第二次世界大戦の太平洋
戦線屈指の最激戦地の一つとして知られる。

日本軍の防衛計画
小笠原兵団の編成と編制
大本営は、アメリカ軍のパラオ諸島空襲など、パラオやマリア
ナの戦況が風雲急を告げるようになると、第三十一軍による小
笠原諸島の作戦指導は困難になる可能性が高く、小笠原にも作
戦の権限を与えるために、マリアナへの戦力増強が一段落した
一九四四年五月二十二日日をもって、他の在小笠原方面部隊と
併せて第百九師団を編成した。
隷下部隊としては、父島に配備されている、父島要塞守備隊等
硫黄島に配備されている「伊支隊」等、母島の混成第一連隊を
指揮下においた。
そして、第百九師団の師団長には、太平洋戦争緒戦の南方作戦
香港攻略戦で、第二十三軍参謀長として従軍、攻略戦後は、留
守近衛第二師団長として、内地に留まっていた栗林忠道陸軍中
将が任命され就任した。
栗林は五月二十七日に親補式に臨んだが、その席で東條英機陸
軍大臣兼参謀総長から「帝国と陸軍は、この重要な島の防衛に
関して、貴官に、全面的な信頼をかけている」と声をかけている。
栗林は第百九師団長として、小笠原諸島全体の最高司令官であ
り、司令部機能が充実している父島要塞で指揮を執るものと思
われていたが、六月八日に、日本本土から直路硫黄島に向かい
そのまま戦死するまで、一度も硫黄島を出ることはなかった。
栗林が硫黄島を司令部に選んだのは、大本営の分析通り、飛行
場のある硫黄島に、アメリカ軍が侵攻してくる可能性が高いと
いう戦略的判断と、指揮官は常に戦場の焦点にあるべきという
信念に基づくものであったとされている。
六月十五日に、アメリカ軍がサイパン島に上陸して、サイパン
の戦いが始まったが、日本軍守備隊は水際撃滅に失敗、アメリ
カ軍が内陸に向けて進撃していた。
マリアナでの決戦を策し「あ号作戦」を発動させていた海軍は
アメリカ軍の空襲で壊滅していた、マリアナの航空戦力に代え
てアメリカ軍機動部隊との決戦に向かう、第一機動艦隊「空母
九隻搭載機数約四百四十機」を支援させるため、第二十七航空
戦隊及び、横須賀海軍航空隊の一部で、八幡空襲部隊「指揮官
松永貞市中将」を編制し、硫黄島に進出させることとした。
八幡空襲部隊の戦力は、約三百機の予定であったが、硫黄島付
近の天候不良で進出が遅れて、六月十九日時点で、進出できた
のはわずか、二十九機に過ぎなかった。
その六月十九日に、日本第一機動艦隊とアメリカ第五十八任務
部隊が激突し、マリアナ沖海戦が始まったが、第一機動艦隊は
空母三隻と艦載機の大半を失う惨敗を喫して、マリアナ海域よ
り退避した。
マリアナ沖海戦で連合艦隊が惨敗を喫すると、大本営はサイパ
ン島の確保は困難という判断を下し、このままマリアナ諸島を
失って、小笠原諸島が最前線陣地となる危険性が高まった。
そこで大本営は、六月二十六日に、大本営直轄部隊たる小笠原
兵団を編成し、第三十一軍の指揮下から外して、第百九師団以
下の陸軍部隊を隷下に、第二十七航空戦隊以下の海軍部隊を指
揮下とし、その兵団長を、栗林に兼任させて小笠原諸島の防衛
を委ねることとした。
さらに大本営は、サイパン島奪回作戦の逆上陸部隊として準備
していた、歩兵第百四十五連隊「連隊長、池田増雄大佐」同じ
く、九七式中戦車「新砲塔」と、九五式軽戦車を主力とする戦
車第二十六連隊「連隊長、西竹一中佐」を、硫黄島に送り込む
ことを決めた。
その他の有力部隊として、秘密兵器である、四式二〇糎噴進砲
四式四〇糎噴進砲「ロケット砲」を装備する、噴進砲中隊「中
隊長横山義雄陸軍大尉」九八式臼砲を装備する各独立臼砲大隊
九七式中迫撃砲を装備する各中迫撃大隊、
一式機動四十七粍砲「対戦車砲」を装備する各独立速射砲大隊
も増派された。
また、硫黄島の従来より硫黄島に配置されていた「伊支隊」等
の各要塞歩兵隊の混成旅団への改編に着手し、七月までには混
成第二旅団として編成し、旅団長には父島要塞の司令官であっ
た大須賀が任じられた。
同様に、父島要塞の部隊も混成第一旅団に改編され、旅団長は
立花芳夫少将が任じられている。
あ号作戦には、間に合わなかった「八幡空襲部隊」であったが
六月二十四日に、ようやく戦闘機五十九機、艦爆二十九機、陸
攻二十一機の戦力を硫黄島に進出させた。
しかし、同日早朝に、機先を制して、第五十八任務部隊第一群
の空母「ホーネット」、「ヨークタウン」、「バターン」から発艦
した、アメリカ軍艦載機約七十機が、硫黄島を襲撃、八幡空襲
部隊は、エースパイロット坂井三郎も含めて、全戦闘機を出撃
させて迎撃したが、二十四機が未帰還となったのに対して、ア
メリカ軍の損害は、六機であった。
さらに「八幡空襲部隊」は、アメリカ軍艦隊に対して反撃を行
ったが、艦爆七機と戦闘機十機が未帰還となって、たった一日
で半分の戦力を失ってしまった。
その後も「八幡空襲部隊」の硫黄島への進出は進み、アメリカ
軍艦隊や、サイパンの飛行場やアメリカ軍地上部隊に対する攻
撃が続けられた。
アメリカ軍は、それに対抗して硫黄島への再三にわたる空襲を
行ってきたので「八幡空襲部隊」は次第に戦力を失い、最後は
七月四日に巡洋艦八隻と駆逐艦八隻による、艦砲射撃によって
作戦機を全機撃破されてしまった。
このため、アメリカ軍侵攻前に、硫黄島の航空戦力はほとんど
なくなってしまった。
硫黄島には、一九四〇年時点で、住民が千五十一人居住してい
たが、否が応でも戦争に巻き込まれてしまい、全島百九十二戸
の住宅は、三月十六日までの空襲で、百二十戸が焼失、六月末
には二十戸にまでなっていた。
栗林は住民の疎開を命じ、生存していた住民は、七月十二日ま
で数回に分けて父島を経由して日本本土に疎開した。

地下陣地の構築
地形を巧みに利用して構築された日本軍トーチカ、このような
陣地が島中に無数に構築された。
日本軍は、対上陸部隊への戦術として、タラワの戦いなど、上
陸部隊の弱点である、海上もしくは水際付近にいるときに戦力
を集中して叩くという、水際配置、水際撃滅主義を採用していた。
タラワ島では、この方針によってアメリカ軍の上陸部隊の三十
パーセントを死傷させる大打撃を与えたが、サイパンの戦いに
おいては、想定以上の激しい艦砲射撃に加え、日本軍の陣地構
築が不十分であったことから、水際陣地の大部分が撃破されて
しまい上陸部隊の損害は、十パーセントと相応の打撃を与えた
ものの、日本軍の損害も大きく、短期間のうちに戦力が消耗し
てしまうこととなった。
このサイパン島の敗戦は、日本軍に大きな衝撃を与えて、のち
の島嶼防衛の方針を大きく変更させた。
その後に作成されたのが、一九四四年八月十九日に参謀総長名
で示達された、島嶼守備要領であり、この要領によって日本軍
の対上陸防衛は、従来の、水際配置、水際撃滅主義から、海岸
線から後退した要地に、堅固な陣地を構築し、上陸軍を引き込
んでから叩くという、後退配備、沿岸撃滅主義へと大きく変更
されることとなった。
硫黄島においても、栗林が着任前には、前軍司令官の小畑の指
示もあって、従来の、水際配置、水際撃滅主義による陣地構築
が行われていたが、栗林は、六月八日に硫黄島に着任するとく
まなく島内を見て回り、硫黄島の地形的特質を緻密に検討して
サイパン島の陥落前の六月十七日には、従来の水際配置、水際
撃滅主義を捨て、
主陣地を水際から後退させて、縦深陣地を構築し、上陸部隊を
一旦上陸させたのちに、摺鉢山と北部元山地区に構築する複廓
陣地で、挟撃して、大打撃を与えるといった攻撃持久両用作戦
をとることとし、師団長注意事項として、全軍に示達された。
この栗林の方針転換は、サイパン島の陥落によって、方針を転
換した、大本営に先んじるものであった。
なお、ペリリューの戦いにおいて、アメリカ軍を持久戦術で苦
しめた、中川州男陸軍大佐も、一九四四年七月二十日に、大本
営が戦訓特報第二十八号によって通知した、サイパン島の戦訓
を活かして、栗林とほぼ同時期に縦深陣地を構築し、圧倒的優
勢なアメリカ軍を、二か月以上も足止めし多大な出血を強いて
いる。
栗林は、アメリカ軍を、内陸部に誘い込んでの、持久戦や遊撃
戦「ゲリラ」を新戦闘方針とし、六月二十日には、そのための
陣地構築を、伊支隊に命じた。
しかし、この栗林の方針転換に対しては、飛行場の確保を主目
的とする、南方諸島海軍航空隊司令の井上左馬二海軍大佐らと
従来の水際配置、水際撃滅主義に拘る、一部の陸軍幕僚から反
対意見が出た。
特に第百九師団の参謀長堀静一大佐は、陸軍士官学校の教官を
していたこともあり、八十年にも渡って日本軍が研究してきた
水際配置、水際撃滅主義に固執し、混成第二旅団長の大須賀も
海軍や堀の意見に賛同した。
栗林は、頑迷な海軍と一部の陸軍士官に対して失望し、士官は
バカ者か、こりごりの奴ばかりだ、これでは、アメリカといく
さはできない、と、副官にぼやいていたが、八月中旬の陸海軍
による協議において、栗林が妥協し、一部の水際、飛行場陣地
構築が決定された。
この妥協によって、栗林の作戦計画が不徹底となったという指
摘に対して、第百九師団参謀の堀江芳孝少佐は、栗林中将自身
は持久戦「後方・地下陣地構築」方針は、一切変更しておらず
海軍が資材を提供してくれるなら、一部陸軍兵力でこれを有効
活用できる、水際陣地は、敵の艦砲射撃を吸引する偽陣地的に
使用できるなどと、栗林が計算した上での妥協であったと証言
している。
海軍側は一万二千トンものセメントの提供を提案したが、結局
送られてきたセメントは三千トンに止まった。
海軍には妥協した栗林であったが、軍司令官に公然と反論した
堀や大須賀に対しては、軍内の統制を保つためにも看過するこ
となく、十二月には、大須賀を更迭し、代わりに陸軍士官学校
同期で歩兵戦の神の異名をもつ、千田貞季少将を呼び、また堀
も更迭して、高石正大佐を参謀長に昇格させた。
他にも栗林は、自分の方針に従わない参謀や部隊指揮官らを更
迭し、その人数は十八人にもなった。
この強引な人事もあって、硫黄島の陸軍内の統制は保たれるこ
ととなった。
栗林中将は後方陣地および、全島の施設を地下で結ぶ、全長十
八キロメートルの坑道構築を計画、設計のために、本土から鉱
山技師が派遣された、兵員に対して時間の七割を訓練、三割を
工事に充てるよう指示した。
硫黄島の火山岩は非常に軟らかかったため、十字鍬や円匙など
の手工具で掘ることができた。
また、司令部、本部附のいわゆる事務職などを含む全将兵に対
して陣地構築を命令、工事の遅れを無くすため、上官巡視時で
も作業中は一切の敬礼を止めるようにするなど、指示は合理性
を徹底していた。
そのほか、最高指揮官「栗林中将」自ら島内各地を巡視し、二
万一千名の全将兵と顔を合わせ、また歩兵第百四十五連隊の軍
旗を兵団司令部や連隊本部内ではなく、工事作業場に安置させ
るなどし、将兵のモチベーション維持や軍紀の厳正化にも邁進
した。
しかしながら、主に、手作業による地下工事は、困難の連続で
あった。
激しい肉体労働に加えて、火山である硫黄島の地下では、防毒
マスクを着用せざるを得ない硫黄ガスや、三十度から五十度の
地熱にさらされることから、連続した作業は、五分間しか続け
られなかった。
また、アメリカ軍の空襲や艦砲射撃による死傷者が出ても、補
充や治療は困難であった。
汗の一滴は血の一滴を合言葉に、作業が続けられたが、病死者
脱走者、自殺者が続出した。
坑道は、深い所では、地下十二メートルから、二十メートル以
上、長さは、摺鉢山の北斜面だけでも、数キロメートルに上った。
地下室の大きさは、少人数用の小洞穴から、三百人から四百人
を収容可能な、複数の部屋を備えたものまで、多種多様であった。
出入口は、近くで爆発する砲弾や爆弾の影響を、最小限にする
ための、精巧な構造を持ち、兵力がどこか一つの穴に閉じ込め
られるのを防ぐために、複数の出入口と、相互の連絡通路を備
えていた。
また、地下室の大部分に硫黄ガスが発生したため、換気には細
心の注意が払われた。
栗林中将は、島北部の北集落から、約五百メートル北東の地点
に兵団司令部を設置した。
司令部は地下二十メートルにあり、坑道によって接続された各
種の施設からなっていた。
島で二番目に高い、屏風山には、無線所と気象観測所が設置さ
れた。
そこからすぐ南東の高台上に、高射機関砲など一部を除く硫黄
島の全火砲を指揮する、混成第二旅団砲兵団「団長・街道長作
陸軍大佐」の本部が置かれた。
その他の各拠点にも、地下陣地が構築された。
地下陣地の中で、最も完成度が高かったのが北集落の南に作ら
れた主通信所であった。
長さ五十メートル、幅二十メートルの部屋を軸にした施設で壁
と天井の構造は、栗林中将の司令部のものとほぼ同じであり地
下二十メートルの坑道がここにつながっていた。
摺鉢山の海岸近くのトーチカは、鉄筋コンクリートで造られ壁
の厚さは一.二メートルもあった。
硫黄島の第一防衛線は、相互に支援可能な何重にも配備された
陣地で構成され、北西の海岸から、元山飛行場を通り、南東方
向の南村へ延びていた。
至る所にトーチカが設置され、さらに、西竹一中佐の戦車第二
十六連隊がこの地区を強化していた。
第二防衛線は、硫黄島の最北端である、北ノ鼻の南、数百メー
トルから、元山集落を通り東海岸へ至る線とされた。
第二線の防御施設は、第一線より少なかったが、日本軍は自然
の洞穴や地形の特徴を最大限に利用した。
摺鉢山は、海岸砲およびトーチカからなる、半ば独立した防衛
区へと組織された。
戦車が接近しうる経路には、全て対戦車壕が掘削された。
摺鉢山北側の地峡部は、南半分は摺鉢山の、北半分は島北部の
火砲群が照準に収めていた。
一九四四年末には、島に豊富にあった黒い火山灰を、セメント
と混ぜることで、より高品質のコンクリートができることが分
かり硫黄島の陣地構築はさらに加速した。
飛行場の付近の海軍陸戦隊陣地では、予備学生出身少尉の発案
で放棄された、一式陸攻を地中に埋めて地下待避所とした。
アメリカ軍の潜水艦と航空機による妨害によって、建設資材が
思うように届かず、また上述の通り、海軍側の強要により到着
した資材および構築兵力を、水際・飛行場陣地構築に割かざる
を得なかったために、結局坑道は、その後に追加された全長二
十八キロメートルの計画のうち、十七キロメートル程度しか完
成せず、
司令部と摺鉢山を結ぶ坑道も、残りわずかなところで未完成の
ままアメリカ軍を迎え撃つことになったが、戦闘が始まると地
下陣地は所期の役割を十二分に果たすことになる。
のちに、栗林が築き上げたこの防御陣地に、多大な出血を強い
られることとなった、硫黄島上陸部隊の指揮官である第五十六
任務部隊の司令官ホーランド・スミス海兵中将は、防御陣地と
栗林による部隊の配置を以下のように評した。
栗林の地上配備は、私「スミス」が、第一次世界大戦中に、フ
ランスで見た、いかなる配備より遥かに優れていた。
また、観戦者の話によれば、第二次世界大戦における、ドイツ
国防軍の配備をも凌いでいた。