最終回 悲しみはいつきえる 侑子最後の文字

 

高知医大

 交換日記 24

高知医大で療養

12月27日 火曜日 晴れ

        

           25-1熱

一週間ぐらい高い熱があってやっと、微熱に下がって日記を書けた。

先生のお返事

大変でしたね。よく頑張りました。よかったねえ今日は気分が楽になって。

12月29日 木曜日 晴れ

私の、1日の楽しみは、藤岡先生が、来る事です。

だって先生とおしゃべりするから面白いんだもの。

先生のお返事

藤岡先生は本当によい先生だと(私)先生も大好きです。でも侑子さんの場合は相思相愛(互いに愛し合う)で私の場合は片思いのようね。

12月29 日木曜日 (交換日記より抜き出し)

今、私は冬休みに入っています。

冬休みは、特に宿題はありません。

でも、私は、しんどくない時に、復習をやっています。

         25-2高知医大

24日の最後の日は、熱が高くて、高橋先生に、会えませんでしたが、お母さんが、通知表をもらってきてくれていました。

後で通知表を見ると、成績がよくて、うれしかったです。

でも、付いていたのは、算数と国語だけで、みんなみたいに、全部は付いていません。

                 

12月30日 金曜日 晴れ

お母さんが読んでいる週刊誌に、面白い話しがのっていました。

それは、ある日珍しく夫婦で喫茶店へ言って、ボーイさんに「ご注文は」と聞かれ、奥さんが「キリマンジャロ下さい」

と言うと、旦那さんが、どこでとう間違えたのか「私も同じ、クリまんじゅう。」と言った。

と書いていたと、お母さんが読んでくれました。

先生のお返事

ほんと、何の本に出てたの。おかしいね。えでも私たち夫婦もその話しに似たおかしい事をやった事が何度もあるみたい。又、いつか侑子さんに話してみようかねえ。

      

          25-3クリ饅頭

12月31日 土曜日 曇れ

今日で、63年(1988年)も終わりです。

明日から、64年(1989年)になります。

正月は、家へ帰れず、病棟で治療です。

先生のお返事

今年はまあ我慢して治療しましょう。お母さんも一緒いてくれるし頑張ろうね。

 

昭和64年 1989年 侑子 江の口養護学校五年生

1月2日 晴れ

昨日、藤岡先生が、看護婦さんにないしょで、私に、お年玉をくれました。

「気のどくのような、気もしたけど、うれしかったなあ。」

先生のお返事

いや!内緒の日記見ちゃったな。悪いな。でも誰にもいわないからね。やっぱり相思相愛だと思うね。侑子さんの日記には女の子らしい優しさとなんとも言えない心の豊かさがあふれていて読んでいて嬉しくなります。

        

          25-4お年玉

 

侑子の日記はここで最後になっています。

これが侑子の最後の文字となってしまいました。

高知市民病院もそうでしたが、徳大と高知医大での治療は、それはつらく厳しい物でした、それでも侑子は明るく振舞い過酷な治療に耐え毎日頑張っていました。

日記が少ないのは、そんな書けるような状態ではありませんでした。

侑子は、平成元年1月11日わずか11歳と言う短い命をここに閉じました。

侑子、お父さん寂しいよ。

           25-5死

 

父  侑子有難う

侑子よく頑張ったね、脊髄の検査は痛かったでしょう、抗がん剤治療も苦しかったよね。

お父さん、何もできなくてごめんね。

侑子に会いに通うだけでお土産も持って行ったけど、お父さんの子に生まれたからでしょう。

侑子ごめんね、ごめん。

治療中、侑子は明るく振る舞ってくれたしお勉強をよくしましたね。

先生や病院の方とか、ほかの人にもほめられたよ。

お葬式済んで或る日、先生とクラスのお友達が侑子の所に来てれて。

お家で焼き肉したよ、みんな今どうしているんでしょうね。

お兄ちゃんも侑子もお父さんの自慢の子だったよ。

ではね。

侑子は、白鳥座に居るんだね夢で見たよ、きっと会いに行くからね。

追申

投稿のブログを後から見ると誤字や脱字が有ったりし、不愉快をおかけしたブログとなりましたが、皆様方のコメントとや、いいね、に励まされながらなんとか最終回まで投稿出来た事を皆様に感謝して終わりたいと思っています。

ありがとうございました。