子どもは、良きも悪きも周りの環境(大人)をお手本とする。


 私の父親は(我が子からみたら祖父)は、いわゆる(身体的に暴力はないモラハラ、フキハラ)暴君だ。


 日がな一日中、居間にいてテレビが友だちだ。おそらく今もそうだろう。

 テレビも家族で一緒に観ていても、自分の気の向くままチャンネルを変える。チャンネル権は、自分にあって当然であり自分が観たい番組を観るためのテレビという考えだ。


 生前、母親(我が子からみたら祖母)が観ているテレビのチャンネルを突然変えられたときに怒ったことがあった。

「今観ているのに何で変えるの!」

 そのあとはフキハラ。

 そのあとは、父親が早めに寝てからが母親のテレビ権が発動するようになった。


 同居中は、私たち親子にはテレビ権がなく、我が子は土日の朝9時から11時が唯一自由にテレビが観られる時間だった。

 私に至っては、観る時間もなかったが、テレビ権はなかった。


 なので悪い環境を観て育った我が子は、自分が観ないときにテレビを消すことは普通のことと認識してしまっていた。(親子で電気代節約を心がけているから)


 これは我が子自身の自己中というより、環境がらみの自己中ともいえるかもしれない。

 テレビの勝手なザッピングもそう。


 ザッピングは、注意して直った。

(環境からの自己中は言えばわかるときあり)


 しかし、ここが発達障害なのかな?

 みんなで観ていて勝手なザッピングは、失礼であり非常識だということを注意してわかっても、そこからの応用的な考えに結び付かない。


 勝手なザッピングが非常識なら、勝手にテレビを消したりするのも同じこと、とは結び付かない頭の構造。


 今朝は突然、パチッとテレビを消したから、注意をした。