昭和40年代を通して、豚を飼っていた。今でも不思議なのだが、家はトタン屋根の継ぎ足しで赤錆だらけだったのに、豚小屋は何とコンクリート建てで、20坪ほどもあった。「何で」当時どれほど親父を恨んだことか。
 さて養豚だか、良い思い出しかない。ランドレース種は、優雅な「紅の豚」というイメージで、純白の毛にピンク色の肌。混ぜて飼ってもトラブルは皆無だった。
管理面だが、ワラを薄く敷きつめて頻繁に取り替えれば、匂いも気にならなかった。
おがくずが良いようだが、当時は軽トラもなく手に入らなかった。豚舎に水をひんぱんに流すと常にじめじめし、逆に不衛生になった。それに豚自体が数百㌔にもなり、転んで骨折という事故も懸念された。
  少し話題を変えて、一年ほど馬を飼ったが悪い思い出しかない。
とにかく意地悪・・
  餌をあげていると、スッと顔が近づく。何かと思えばいきなり右肩をガブッとやられた。または首でビンタを張られた。聞けば、相手を見て行動するという。
性悪な犬のようだった。
 豚の餌はふすま(混合飼料)に、芋や芋の葉などを混ぜて、これをシンメーナービで煮てから与えた。因みに一連の作業は、ほぼ我仕事であった。畑から芋・芋の葉を取ってくる。それを、井戸から水をくみ上げバケツの中で足で洗った。俗に言う「芋洗い式」。
裸足なので芋に触れると痛く、あまりいい仕事ではなかった。  井戸はつるべなどなく、ロープの先に小さなバケツがついていた。それをゆっくりと引き上げて行った。間違ったら井戸へ真っ逆さまであった。
  その後シンメーメーナービだが、ポンプで水を汲み上げ、釜の火をひたすら燃やし続けた。(敷地内に井戸が2つあった)
あの頃は薪をまとめて購入していて、ラワン材が防蟻処理のため、燃やすと薬剤の匂いが派手に拡散された。
 不思議と豚に餌をやる場面は憶えていない。ランドレース種は大柄で、体長二メートル以上にもなった。出産は安産型で、何と15~16頭も元気に生まれた。冬の寒い時期に生まれ、一頭ずつ布きれで丁寧に拭き、専用の小部屋に移動した。小部屋には暖房用の電球を入れた。ヨーロッパ種だが、品種改良のためか毛が薄く、生まれた当時の子豚が寒さに震えていたのを思い出す。
  授乳が一仕事で、最初親は立って与えた。だんだん疲れてくると横になった。その時うまくフォローしないと数頭が圧死した。うまく横になれないのである。子豚をその度に安全地帯へ誘導するのも大切な仕事であった。
  可愛らしい子豚たちとも突然の別れとなった。大体体長50~60センチくらいで売られて行くのである。その場面は見たことがない。
学校に行っている間に、ごそっといなくなっていたのである。
  いつも「フスマが高い」等飽きるほど聞かされていたので、我養豚の餌は随分低栄養だったのかもしれない。他の所では魚粉やカルシウムなども与えられたようである。
  今となっては、美味しい餌をいっぱい食べて数百㌔もある立派な豚となり、沖縄の食料事情に貢献したものと信じている。