ハイ。

次の職場が見つからないまま、

30日で特養の契約社員期間満了で退職でした。

 

私自身は、病棟勤務が18年くらい、介護老人保健施設勤務が8年。

今年は看護師となり26年目。

 

特養には2箇所勤めましたが、

特養での「看取り」について、

これほど考えさせられる時間はないというくらい、

いろんなことを考えさせられた、濃密な特養勤務1年1ヶ月でした。

 

 

 

改めて、特養と老健の使命について、考えてみました。

 

そもそも、特養とは、高齢者の方々にとっては(終の住処)。

老健はリハビリに特化し、介護保険内で周に2回のリハビリと、

毎日行うリハビリメニューを組み込みます。

どちらも高齢者の生活を支えることには変わらないけど、

同じ人生の終末を迎えるのでも、特養と老健とでは、

ニュアンスがまるで違ってくるのですね。

 

老健ではそもそも「看取り契約」なんてしないし、

急変があれば救急搬送もする。モニターも点滴も酸素もある。

 

でも、特養ではほとんど使わない。本当に「看取るだけ」。

 

今年一月に、特養で明らかに全身状態が悪化して、

血圧も酸素飽和度も測れない、あと1日か2日、という人がいたのですが、

私が担当の日に「明らかにレベル低下してます」と報告すると、

看護主任からは「熟睡してるだけじゃね?」と言われました💧

 

そんな馬鹿な、、ご飯ももう食べられなくて、

声掛けにもほとんど反応もなく、血便も出てる。

絶えず痰がらみもある。

午後にもう一度報告したら、やっばり熟睡だと言われ💧

翌朝、呼吸停止しました。

 

施設長と主任、夜勤介護士は「Kazeさんの判断のほうが正しかったね、、、」と

青ざめてたようで(−−;

 

特養に勤めてる看護師は、基本的にこまめに観察はしない。

「もう看取り契約の人だからいいよ、何もしなくて」と、

呼吸が止まるまで本当に最低限のことしかしない。

でも、大川隆法総裁の心の教えを学び、霊的人生観を知っている私は、

ちゃんと声をかけてあげたいので、

「苦しいね、でももうすぐ終わるから、頑張ろうね」

「もうすぐお迎え来るからね、ちゃんと手繋いで行くんだよ」と、

馬鹿みたいに声をかけてあげます。

 

だって、明らかに観察せずに、「その時が近づいていても観察しないで

放置プレイにしてるのに、いつの間にやら呼吸停止してたら

「素晴らしく穏やかな最期でした」とか言われたくないですよね。

 

 

看取り契約で何もしなくてもいい利用者様に対しても、

できる看護は必ずある。

それは、放置して無関心を装っていいわけでも何でもよいというわけではなく、

最期を迎えるその時まで、利用者様の生きてこられた歴史や人格などに対し、

尊重しながらお見送りさせて頂くという姿勢が大切なのだと考えるのですが、

私の考えって、間違っているのかな???と、

疑問を感じながら仕事するようになり。

 

私には、特養での仕事は不向きなのかな、と思うようになりました。

(まぁ、すべての特養がそうだと言うわけではないと思うんですけどね、、、)

 

そして、正社員扱いで入職したにもかかわらず、

試用期間をすぎたら、「準職員」というわけ解んない区分になってて、

雇用契約書をよく見たら、契約社員扱いだったので、

契約満了とともに、特養での勤務を終了しました。

 

 

 

そして、特養の経営母体の法人は、

土建業や教育グループなどが母体になっているところが多く、

とにかく人材を大切にしない。

だから看護、介護の出入りも激しい。

だから、特養の看護師の役割って、何だろう?

介護士さんの役割って、なんだろう?

高齢者の幸福って、何だろう?

就活の合間に、そんなことを深く考えるようになりました。

 

経営母体の社長や理事長が現場のことに目を向けず、

現場の声に耳を傾けないだけで、

介護・看護の立場は危ういものにされてしまう。

正社員を雇わずに、契約社員扱いとして雇うのも、

経営陣トップの考え方一つがそうさせてしまう。

いつだって首を切れる、いつだって都合の悪い人材は排除できる、

そういう雇用の仕方には問題があります。

非正規雇用問題として、社会問題にもなっていますから、

どこの会社でもそうなのでしょう。

 

でも、我々は資格職なのに、非正規雇用にするとは、、、

バカにしているとしか思えません。

 

 

私にとって、看護職とは天職なので、どんな目にあっても続けるし、

そうでなければここまで続けることもまた不可能であったかと思います。

 

「看護職を通して神仏の光を流していくこと、

そして揺れ動く死生観の中で、霊的人生観を知る者として、

渡し守の役目をしていくこと。」

 

沢山の患者様や利用者様、沢山の人に恩返しをしていくためには、

この世仕事を続けるしかないと、改めて思いました。

 

特養最終日に利用者さまから言われた一言。

「Kazeさん、これからもいい看護師さんでいて下さいね」

利用者さまからのグッと来る、感動的な一言。

この一言にパワーをもらい、

感謝と笑顔で特養の仕事を終えることができました。

 

資格職として、誇りと矜持をもって人生を歩み続けていくこと。

自己実現のために生きるのではなく、利他の人生を歩み続けていくこと。

その熱い思いだけが、今の私を支えてくれています。

 

 

 

長くなりました。

ではまた次回^^ノ

 

 

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「人にしてあげたことは忘れ、してもらっったことには感謝をすること。」

 

「私はこれだけしてやったのに、愛してやったのに、

よくしてやったのに、相手からのお返しがない。私の恩が分かっていない」

たいていはこのように考えるものですが、

この「してやった」という気持ちの中には、一種の人格的未熟さがあることに

気づかなくてはなりません。あげるときには、”ただ”であることが大切なのです。

 

特に心の問題はそうです。優しさや気遣いなど、

人への愛は与えきりであり、一方通行だと思ってください。

もし愛が返ってきたならば、「得をした」と思えばよいのです。

 

お返しをもらおうと考えてはいけません。

とにかく与えきり、人にしてあげたことはすぐに忘れることです。

しかし、人からしてもらったことは、いつまでも覚えていて、

感謝していくことです。

 

世の中に恩知らずの数は尽きないのです。

その恩知らずのなかには、ほかならぬ自分自身も入っていることを

忘れてはいけません。

「私は自分の力で道を切り開いてきた」と思っても、

その途中においては、さまざまな人の恩恵に浴していることも事実でしょう。

自分の受けた恩を、両親、先生や友人、会社の上司や同僚などの温かい愛を、

忘れているのです。

 

そして、「人は私に何もしてくれなかった」「あれだけしてあげたのに、

飼い犬にて手を噛まれた」などという発言になってきます。

「他人にしてあげたことを覚えている人ほど、自分が他の人からして

もらったことを忘れやすい」という現実があるのです。

大切なのは、「他人に何かをしてあげるときには、与えきりにして、

それを忘れる。逆に、してもらったことは長く覚えておき、感謝をしていく」

ということです。これが基本的な考え方です。

こうした考え方を持っていれば、世の中はもっと良くなっていきます。

 

                  (書籍「不動心」 第6章「不動心」より抜粋)

 

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