今年もまた大晦日がやってきた。
1年前、最恐で最悪の独裁国家が生まれると書いたが、やはり現実のものとなった。
民主主義はやはり脆いと嘆息するばかりである。
どうして学習しないのだろう、否そもそも学習するつもりがないのかもしれない。
風爺さんの頭の中に「人権」という言葉が、ぐるぐる回り始めたのは何年前だろう。
人権は作り上げられた概念だが、権力に抗える弱者の貴重な武器である。
だが、この国で人権は粗雑に扱われていると思うのは私だけ?昨今の何やらファーストのように敵意むき出しの思考の前では、人権など無視されてしまうし、敵意の対象には、人権など存在しない。「
敵がいる」と想定する事はそういうことなのだ。
これから先、なんだか人権侵害が増えそうな嫌な予感がするのである。
マイノリティーにとって、マジョリティーがマイノリティーに向ける敵意は恐怖でしかない。
その敵意は平凡な日々の営みと言う小さな物語を破壊する。
ぼやきはそれくらいにして、今年読んだ本をひとつか二つ、かいつまんで・ ・ ・
ウィトゲンシュタイン全集第8巻「数学の基礎」
読んでいながら何故かほっとする。書かれている内容ではなくその世界に浸っている自分にほっとしている。
書店に行き、俺を読めとなぜだか訴える本がある。
気のせいだとは思うが、過去に2回その経験はある。
1回目がウィトゲンシュタイン全集だった。ちなみに2回目はセリーヌの「夜の果ての旅」。
全集では、ウィトゲンシュタインの名だけど風爺さんはドイツ語の発音でヴィトゲンシュタインと普段は呼んでいる。
ヴィトゲンシュタインの哲学の大きな特徴は、超越論の徹底的な忌避である。
プラトニズムなど考察の対象にすらなってはいない。するだけ無駄と言うやつだ。
「数学の基礎」についてもそれは徹底されている。辟易するような煩瑣な考察が続いているが、ゲーデルがそれを終わらせたようである。
オルテガ著作集
50代になって、オルテガと再会する。きっかけは「ライブニッツ哲学序説」。
オルテガは、スペインの哲学者だが、系譜としてはドイツ哲学に属する。
この著書の中で、風爺さんはオルテガの「概念の拡張」という視点にこれまで何の疑いもなく受け入れてきた哲学上の概念の曖昧さに対して蒙を啓かされた。
そんな経緯やなぜかオルテガに近しさを感じて、オルテガ著作集全8巻を手に入れて今年全てを読み終えた。
およそ100年前のオルテガの嘆きは、風爺さんの嘆きでもある。
オルテガは「大衆」について次のように書いている。
『大衆人とは、自分の歴史を持たない人間、つまり、過去という内臓を欠いた人間であり、したがって、「国際的」と呼ばれる、あらゆる規律に従順な連中である。それは人間と言うよりは、むしろ、単に市場の偶像に乗って、作り出された人間の1つの殻に過ぎない。すなわち、彼らには「中身」がつまり 頑としても他人のものとなることを拒否する譲渡不能な彼自身の精神が取り消すことができない自我が欠如しているのである。そのため、彼らは常に何かであることを装おうと待ち構えた状態に置かれている。大衆人はただ欲求のみを持っており、自分に権利だけがあると考え、義務を持っているなどとは考えもしない。つまり彼らは自らに義務を課す高貴さを欠いた人間であり、俗物なのである。』(白水社刊 オルテガ著作集第2巻「大衆の反逆」より)
本ではないが、あるレポートが気になった。
早稲田大、東京大等の研究グループの〈日本人の「デモ嫌い」が生むプロパガンダへの脆弱性を解明〉というものである。
デモは一般の人々が権力に対して意思表示をする権利の1つである。しかし、多くの日本人がデモに対してはネガティブな感情を抱いているというものだ。それによってタイトルにあるように、プロパガンダに対しては脆弱性を有する。
日本人の右傾化という議論が喧しいが、このレポートを読むと、腑に落ちた。
この先、日本がデモ嫌いの人々が敵視する中国と同じ体制に向かう未来が見える。
そろそろ風爺さんはこの世界から退場する。
しかし。まさか帝国主義の復活を見せつけられるとは想像もしていなかった。
個人的にはプラトン、アリストテレスと此の期に及んで向き合うことにしたこと。
自分でも驚いている。まっ、わが寿命を考えると完走はできないけどね。
おそらく来年も風爺さんが大事にしたい「小さな物語」が蹂躙されるのを多く見ることになるだろう。
「生は暗く、死もまた暗い」(Gustav Mahler)
暗いなぁ(苦笑)