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時間ができたら、依存が見えてきた。あなたもわたしもあの人も、依存の鎧を纏った戦士のような気分で生きざるを得ない。誰言うと も無く世界はだんだんとそうなって来た。今坂道をよいしょと歩く若い娘の後方には、老女が付いて来ている。その老女は実は、その娘の別の姿。時間的に老いるとはこうゆう事だ。逆にハイハイする産まれたての初めの頃の赤ちゃんの自分は、どんどん後ろをまだ這っている。過去とはそういうものだ。しかし、どんどん歩いていく内に、もう一人の自分とも遭遇し、肩を並べ仲間になって楽しく旅を続ける事だって出来る。注意しよう、老婆が近づいてくる。その老婆に追い抜かれようものなら、その時若い娘は、老婆に姿を変え、さびしそうな娘はだんだんと離されながら遠くなっていく。娘よ、気をつけて。君は老いることの無い人生を授かって産まれて来たのだよ
本日、友井絹子さんを偲んでという番組が地元で生放送された。異例の事であろう。夏休みの終わりに他界した、一人の女性。言語と体に差し障りを持って生まれ育ち、念をあざやかに残して去った。その残したものがマスコミ沙汰になる訳だから、立派に死ねた、伝説その壱である。念を残せると言うのは、その思いの確かさからである。口癖は「私は幸せよ」であった。そして筋金入りの「幸せ観」のベースにはでも『私の幸せを壊されることには、はっきり抗議します!』という姿勢がずっと続いてあった。丁度彼女が愛する鈍行列車の旅の線路が二本横たわるように。一本は幸せの線、片方は震える言葉と体の線。差し障りの物体としての自分と、完全自由な魂こころ、その二つの上をゆっくりと鈍行列車のように味わいながら生きたのだ。そして隣人にも、幸せ観を振り蒔きながら進んだわけである。同じ列車に乗り合わせた道連れは、老若男女構わず幸せな一刻を刻む。そんな鈍行列車の旅のような一生を続けられたのだから、凄いことである。差し障りの度合いで、もっと何かを作り上げる力を発揮して一生を終える人もいる。山下ヤス子さんのような一回り若く企業精神溢れる人も似たタイプだと思う。彼女のどんこう精神を若い女性がきっと引継ぐことを信じ、男性がサポートしていくことも望む。彼女がそう生きたように。
ニッポンの首相に同年が決まった日だから、覚えやすい。その日の3時という葬儀にしては時間が半端かななどと、しかし遅れぬようにアゲインビルの中を抜けて街中の教会へ到着した。偲ぶ会の看板と葬儀社の誘導にたどり着いた受付には、NPOの事務局員の女性が2名、その後ろに馴染みの豪傑2名が立っていた。髭の写真家芥川氏と筆太郎こと川原一之氏。アジアを駆ける両雄は、年齢に合わせ疲労の色は隠せないが、こちらの少しの冗談には笑みを返してくれた。
祈祷、賛美歌、聖書というパッケージ化された偲ぶ会は、神の御前に永遠に過ごす御霊を確認する時間がオルガンの音の流れと共に過ぎていく。牧師は死者を安寧のうちに神の御許に返した仕事のあとの最後の祈りを坦々と進める。賛美歌を楽譜を見ながら歌うと言うほとんど忘れかけたこともした。私の知ったカソリックとプロテスタントとの違い、映画ハーダーゼイカムから感じたラスタ、ムスリムとキリストの違い、元々違いが気になる私の思考と違いにこだわる嗜癖などを教会に持ちこんでいたのだが、喪主である博士は、そんな51歳の男に、答をくれた。人は生きたように死ぬという事をアウフヘーベンして、生ききったことを認めさせる、そのことをちゃんと証明してみせる、人間の証明への回答を出してくれた。そして会衆の一人の私には、君が気にする違いって何なんだろう。なぜ君が違いにこだわるかを証明しきって死ぬ事になれば、君はそれで本望であろうし、生きている内に証明できれば、もつと人生の本質に近づくことができるであろうと。生きていることは何かを究めるためにあるという側面もあるということだろう。
つまり、式を通じて、学者の妻としての苦労が数多く並べられたにもかかわらず、人が究めるとき、それは一点に焦点が当たるだけではなく、一番身近な愛する人をも究めていることに他ならず、きちんともらさずその人生の価値や、意味、を証明してみせてくれたのだった。決して人生には謎かけでおわらせるものではなく、きちんと到達点があることを教えてくれた。学者は経済地理学の専門家であり、登山家であり、その魂は丘の上の馬鹿者、哲学者であった。
悠久の生涯の側で護り続ける役目をおおせつけられた高野槙と言う名前の巨木。
一般には聞き覚えのない名前かも知れない。
だが、我々にとっては親しみの有るコウヤマキ。そして、その名は傑人郷田實氏につながる。
宮崎県綾町名町長であった郷田氏は、照葉樹林を守り、自然保護を前面に押し出し、町政を盛り上げた稀有な首長であった。彼が離職ののちに死の直前まで建設に力を注いだのが、2000年開校の賢治の学校綾自然農生活実践場であった。
有機農業の町をもっと自然生態系に沿った農業へとより本物を目指した彼は、賢治の学校運動で大人の学び場を全国に広げようと各地の人と立ちあがった鳥山敏子に出会い互いに共鳴するところが多く、自然農を学べる場が綾町宮原の厩舎を改造して出来上がった。そこの調度品にも本物を取り入れた郷田さんは、食堂には一枚板の机を置き、風呂場にはコウヤマキの巨木の板で見事な風呂作りを器用大工さん達に命じた。だが本人は入る事の出来なかったコウヤマキの薫り高い風呂であった。ご命日3月21日は照葉忌として悠久に記憶されていくのである。


