君には、君の歌がある

          江口 季好

 

あれから、一年たったね。君の笑い声が家中に響くようになった。今、お父さんは君にもう少し話しておきたいことがある。そのことを、今日は手紙に書こう。

 

あのとき、君はお父さんに本当の気持ちを話してくれた。突然、君がお父さんの部屋に入ってきて、思いつめた顔で、手足をふるわせながら、涙をふきながら話してくれた。

 

お父さん、ぼくのこと聞いて。あした、まえ話した三人に「お金もって来い。」って言われたの。もっていかないと、あした、ぶんなぐられるんだよ。まえ、バスケで、ぼくが、シュートで失敗して、負けたとき、「おまえのせいで負けたんだ。」って、なぐられたり、けられたりしたから、先生に言ったら、先生は三人に「ぶっちゃだめよ。」って、ひとこと言っただけだったの。で、そのあとで、ぼくはまたやられたの。鼻血が出たらやめて「こんど、だれかに言ったら、どうなるかおぼえてろ。証拠にお金をもって来い。」て言われて、お金もっていって、あやまったの。ぼくは、あした、学校に行けない。ずうっと行けない。でも一人でうちにいると、きっと呼び出されて、なぐられると思う。ぼく、もう生きていたくない。ほんとうに、死んでしまいたい……。

 

こう言って、君はお父さんの部屋を出ていこうとした。君は、お父さんにほんとうのことを話してくれた。君はあのとき、死ぬ覚悟をしていた。死ぬ覚悟をすると、どんなことだってできる。どんなにつらくても、生きていくことができる

あの夜、夜明けまで話し合ったね。お母さんは、大きくなった君を、ひざの上にしっかりだきしめていた。

それからお父さんは先生たちと話し合い、三人のお父さんたちとも話し合った。そして、絶対にしかえしがないように全力をつくした。

お菓子などをもってきて謝ることで終わりにしないで、誕生会などをいっしょにやったりして楽しむようにした。親どうし仲よくなったし、君たちも仲よくなった。

 

ところで、今日はあの日から一年目。お父さんは、もう少し君に話しておきたいと思う。じつは、お父さんも小学校一年のとき、三年の子にいじめられたんだよ。林のなかに連れていかれて足やももに小便をひっかけられた。

今では、どこかで見た映画のように、ぼんやりした記憶が残っている。もう、四十年以上前の遠い過去のことだからね、自分のことではないような気もする。

どんなにいやなことがあっても、記憶はすべて一日一日うすれていくものなんだ。人間はそういうふうにできているんだ。それは自分の体の細胞が変わっていくからだろうか。

こういうことに気づいたのは中学の二年か三年のころだった。物事はすべて変化すると思った。自分について、自分は変化するという目で自分を見るようになった。

こういう考え方は、むずかしい言葉でいうと、自己を客観視するということだ。現実のなかで自分を客観視する力がないと、とんでもないことをしてしまう。人間は自分と自分の周囲を冷静に見る力が必要だ。これは、生きる力の一つだろうね。

それから、中学で歴史を勉強しながらこんなことを考えた。豊臣秀吉や徳川家康は、どんなことでもできる権力をもっていた。しかし、テレビを見ることはできなかった。飛行機に乗って外国に行くこともできなかった。

そこで、人生には限りはあるけれども、人間は一日でも長く生きることが何よりも素晴しいことだと思うようになった。

 

それから、また何年かたったとき、

戦争などは絶対にあってはならないし、世界中が平和で、みんなが幸せに生きられるような世の中をつくりたいと思うようになった。

 

君は今、人間にとって何がいちばん大切なことだと思っているだろう。お父さんはね、それは、人生に喜びがあるということだと思っている。

君は中学に入ってから器械体操をやっているね。お父さんは、いいことだと思っている。

器械体操をやる人は、一度けがしたら、練習もできなくなるし、はれの場所に出場することもできない。だから、君は今、細心の注意力を身につける生き方を学んでいるんだ。

君は庭に花を育てているね。それもいい。心に美しい花を咲かせてほしい。

君は音楽も好きだという。お母さんに、フルートを習いたいと頼んだそうだね。それもいい。

 

君には君の歌がある。君の喜びがある。

 

あれから一年たった。今日はお父さんの考えていたことをいろいろと書いた。もちろん、君にこんなお父さんの考えを押しつけようとは思わない。君たちは、君たちの新しい時代に、新しい考えで生きていけばいい。

来年は、お父さんは君にどんなことを話したくなるだろうか。女の人のことについて話したくなるかも知れないな。そうだ、君の考えもゆっくりと聞きたい。いやいや、気が向いたら、この手紙の返事もほしいな。                                                                                                                                   父より