島原城

 

キリシタン大名 有馬晴信の失脚、その嫡子 直純が日向へ転封した後にしばらく天領となっていたこの地にやってきたのが、松倉重政です。重政は、関ヶ原の戦の時に、機を見て、豊臣方から徳川に寝がえり、さらに大坂夏の陣での功労により、4万石を与えられ、大名として、大和からこの地にやってきました。とはいっても、雲仙の火山群の影響で、水田に適さない貧しい土地であった上に、有馬時代の牢人や切支丹の多い厄介な領地だったようです。

 

そんな背景にはお構いなしに、松倉重政は、延べ100万人ともいわれる賦役を使い、7年の時を費やし、この島原城を築きました。その息子勝家も領民を搾ったという事です。そして、切支丹弾圧で島原は爆発寸前だったようです。

上記の地図は、Blog 『昔に出会う旅』より拝借

 

有馬晴信は「日野江城」と枝城である「原城」を築きました。しかし、松倉重政は、島原城築城のために、この城の資材を運び使いました。従って、一揆の時には、城としての形を全くとどめていなかったと言います。

城のある台地の上に立つと、北東に雲仙を仰ぎ、

南西に有明海や天草をのぞむことができます。

 

ただ、それだけの風景なのですが、

 

 原城にいれば終日、海景と山景に飽きることがない。このため、「日暮(ひぐらし)城」と呼ばれた。 (司馬遼太郎)

 

のどかなながめなのです。歴史を知らなければの話ですが。

 

「3ヶ月の間、城に立てこもった」などと歴史本に書いてあっても、疑問にも思っていなかったのですが、

実は、櫓も何も建物はなかったのです。

一揆軍は、その数3万人と言われてますが、その半数は女・子供であったのです。

彼らは、まだぬかるんでいる濠の中を竪穴住居のようにして、失火を避けるために火も使わず、生活していたようです。

大将天草四郎も粗末な小屋住まいでした。

砦として、二の丸、三の丸に柵をめぐらし、1万5千の男が、12万の幕府軍とたたかったのです。

資材は、舟を壊し利用しました。

ただ、火器と火薬だけは、猟に使うためのものがある程度あったそうです。

幕府軍の死者1万人。

 

石碑にはこう刻んであります。

徳川幕府のキリスト教徒弾圧。
 同時に、松倉重政、勝家父子、二代にわたる悪政によって、その日の生活を脅かされた有馬地方の信徒は、天草四郎時貞を盟主として、幕府軍との一戦を決意。
 天然の要害、原城は、たちまちにして、修羅の巷と化した。
 時は、寛永十四年十二月(一六三七年)。
 幕府の征討将軍板倉内膳重昌は、諸藩の軍勢を指揮して、総攻撃を加えること実に三回。
 しかし、信仰に固く結束した信徒軍の反撃に惨敗、繁昌、自らも戦死した。
 思わぬ苦戦にあせった幕府は老中松平伊豆守信綱を急派。
 陸海両面より城を包囲。
 やぐらを組み、地下道を掘り、海上からは軍船の砲撃など、四たびの総攻撃。
 遂に信徒軍の食糧、弾薬ともに尽き果て、二の丸、三の丸、天草丸、本丸と相次いで落城。
 主将四朗時貞をはじめ、老若男女、全信徒相次いで古城の露と消えた。
 これ寛永十五年二月二十八日である。
 その数、三万七千有余。
 思えば、何ら訓練もない農民たちが、堂々数倍に及ぶ幕府軍の精鋭と矛を交えること数ヶ月。
 強大な武力と、権勢に立向ったその団結と情熱、信仰の強さ。
 遂に悲憤の最期を遂げたとはいえ、この戦乱は、当時の国政の上に痛烈な警鐘となり人間の信仰の尊さを内外に喧伝した。
 史家をして
 「苛政に始まり、迫害に終わった。」
 といわしめた島原の乱。
 優美にして堅固。
 かつては、日暮城とまで讃えられた原城。
 いま、古城のほとりに立って往時をしのべば、うたた、感慨無量。
 信仰に生き抜いた殉難者のみたまに対し、限りない敬意と、哀悼の念を禁じ得ない。
 ここに、三百二十年祭を記念して、信徒、幕府両軍戦死者のみたまを慰め、遺跡を顕彰する次第である。
  昭和三十二年五月二十五日
    長崎県知事 西岡竹次郎

 

④天草四郎像 北村西望作(長崎の『平和祈念像』の作者ですが、島原出身だと初めて知りました。)

祈りの手ですが、ラッパズボンにマントという「切支丹バテレン 天草四郎」とは違っていました。

⑤天草四郎の墓 

天草四朗時貞の墓碑
 天草四朗
 小西行長の家臣、益田甚兵衛好次の子で、本名益田四朗時貞といい洗礼名はジェロニモとかフランシスコなどといわれています。
比較的恵まれた幼少時代を送り、教養も高かったといわれ、また長崎へ行って勉強したとありますが、詳細は不明です。
島原の乱に際し、若干15才という若さで一揆軍の総大将として幕府軍と対立しました。
一揆軍は88日間この原城に籠城したが、圧倒的な幕府軍の総攻撃により終結しました。
四朗はこの本丸で首を切られ、長崎でもさらし首にされました。

この墓碑は、西有家町にある民家の石垣の中にあったものをこの場所に移したものです。
 南有馬町教育委員会

四郎の故郷の天草大矢野に向かっているという石像 だれが置いたのかは不明だそうです。

この像のように、ある日突然、慰霊の像が置かれてあることがしばしばあるようです。

 

③櫓台跡

 

3万の一揆勢は、ただ一人の裏切り者を除いて、全員が(女・子供も)斬首されたという事です。

さらに、城の石垣までも徹底的に破壊され、よみがえりを恐れるかのように、遺体の上に捨て置かれました。

南北有馬村をはじめとして、7つの村の老若男女100%が、「一揆」に参加していたためにそれらの村は壊滅しました。まさに、ジェノサイドであり、切支丹に対する「ホロコースト」であったのです。

 

結局、兵糧がつき、飢餓が人の動きをにぶくし、寛永15年2月27、28日の両日、幕軍の総攻撃を受けることによって、霜柱の溶けるように崩れ落ちた。

幕軍は、生き残った者のことごとくを殺した。山田右衛門作以外は、たれひとり殺戮をまぬがれた者はいない。

その点でも、異常なできごとである。

 

フランシスコザビエルが、「東インドで発見された国々の中で、日本だけがキリスト教を、伝えるのに適している。」とローマに書き送ってから、60年しかたっていない、1637年の真冬の出来事でした。

 

しかし、ローマは、原城で惨殺された信仰者たちを、聖人はもちろんのこと、殉教者としても、扱いませんでした。

司祭や助祭のいない集団は、キリスト教徒ではなかったのです。

あくまでも、「島原・天草一揆」は、内乱であり、切支丹の信仰を守る戦いではなかった、というスタンスでした。

 

ただ、幕府のみが、切支丹の恐怖をあおるための宣伝に使いました。

たぶん、私たちの記憶のどこかにある、幻術使いの「天草四郎」のイメージは、「キリスト教は邪教である。」という宣伝の痕跡なのかもしれません。

 

鎖国が完成します。

国内で最後の司祭である小西マンショ(小西行長の娘の子)が大坂で殉教したのは、1644年のことでした。

これより潜伏切支丹時代となります。

 

もう一度、原城址を見ると、ただの段丘上の畑の重なりといった景色であり、背後のかつての幕府方の諸陣地も、雑木にところどころ黒い松のまじった平凡な丘陵があるに過ぎない。

ただ人の影は見当たらない。

そういうあたりが尋常でないと言えば、そうである。

                  ( 『街道をゆく 島原・天草の諸道』 司馬遼太郎)

 

歴史を知り改めて見ると

心が痛んで耐えられない悲しい風景です。