ようやく肌寒くなってきた。と、思ったら”肌”をつける必要もなくなった。この国も変わったものだ。この国には美しい四季がある。しかしもうそんな悠長なことは言えなくなりつつあると言えるだろう。秋なんかすっ飛ばして冬が始まろうとしている。ワイルドなもんだ。

それにしても秋は可哀想な季節だ。スポーツの秋、芸術の秋だと騒がれるが、結局秋には何もないから周りの人間が取って付けただけだろう。秋の実力不足を暗に描写し、何とかしなければとメディアが奔走しているように思えてならない。もし私が秋だったら確実にグレている。学校帰りにマルボロでもふかしているのではないか。

しかし、四季を擬人化した場合となると話は違ってくる。おそらく私は秋と最も親密になると思われる。春を擬人化したような奴では生易しすぎるし、夏のそれはどうせパリピと呼ばれる連中に違いない。冬はどうせニートだ。(冬が好きな労働者諸君、すまない。まあいないと思うが。)

だが、秋はどうだろう。秋を脳内で擬人化すると、一歩下がって支えるような粋な人間を私は思い浮かべる。

これが女なら最高だ。私は女に多い口数を必要としないタイプの人間だし、なんだかプライドも高い(それが私の間違いなく一番嫌な部分だ)。

そして秋の女は、無駄に露出度が高い。肩を出したり、ミニスカートを履いていたり。夏の女のように、品のない露出とは月とすっぽんだ。

今年はまだそんな女に会っていない。ふしだらに丈の短い服を着た女は見飽きた。そろそろ私好みの女見られるかと思いきや、急にそいつらはロングコートを着ようとしている。話が違うではないか。

何もそこまで緩急をつけなくてもいいと私は少しキレたい。今年の女にも、”肌”を見せて欲しいものだ。しかし、深夜にこんな文章を考えている私には披露してはくれないだろう。