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自分や自分の持ち物が足りていないと思う時、私たちは苦しみます。苦しみは自我の中にしかないけれど、苦しむことが悪なのではない。ただ自我は真実ではないというだけだ。
虚偽から真実に戻るには 心を変えなければならない。今まで信じていたものを信じるに値しないと理解しなければならない。それは自分一人ではできない。
愛を分かち合うことでしか目覚めることはない。
愛なしに目覚めようとすることは恐れを隠蔽することだ。
真の自己を内側に見つけ全ての人がそうであることを受け入れた時、初めて恐れる必要がなくなる。
そうならない限りは自分の内に真実を見つけても周りは敵だらけだ 。
これをひと続きの真理として内側に見ない限り、虚偽を虚偽のままに温存することが目的になってしまう。
愛を見つけたつもりになって、障壁を強化することになる。
肉体にとって恐れこそが生命なのだ。
だから肉体と心をわずかでも混同していると私たちはいつのまにか恐れという神を信じている。愛を知ったつもりになっている。「私は肉体ではない」という真理を受け入れるのは「私は神の子だ」と自分に言い聞かせるよりずっと難題に見える。
正直になることだと思う。 自我まみれの自分に。そして真実はそれではないというレッスンから逃げないことだと思う。
みなさん、こんにちは。
心は平安ですか?
知覚が鋭敏な人ほど、穏やかでいるって難しいと思います。
突き詰めて考える人もそうですよね。
自分の心の中を観察していると、それはそれは常に反応し、そこを起点に物事を考えているのがわかります。
そしてそれはほとんどの場合、不快さに反応しています。
不快さという知覚はイコール危険を教える機能ですので、私たちはそれに対して攻撃と防御で対処することになります。
私たちはこの世でほとんどすべての時間をこれに費やして生きています。
私たちは他の動物よりいかばかりか発達した知能を持っているかもしれませんが、その能力は、更に危険を想定して、起こっていない未来に対処することに費やされます。
この世で価値があると言われるのは、この能力の延長です。
つまりもっと攻防の機能を上げる、ということです。
それから自由になりたくないでしょうか。
その壁を越えたくないですか。
それが真理だと私は思います。
真理は「奇跡講座」という書籍につまびらかに明かされています。
もう手に取られている方はお分かりと思いますが、とっつきにくく難解に見えます。
でも、これは実用書ですので、生きる限りどの瞬間にも適用でき、レッスンできます。
そして、いくつかの明確なルール(線引き)を理解すれば、そのレッスンは非常に効果をあげてくれ、取り組むのが信じられないほど楽しくなるはずです。
私とともにこの講座を学んでくださっている方は口々に
「ほんとに(この学びに)出会えてよかった・・・」とおっしゃいます。
心の奥から安堵とともに出る言葉に私には聞こえます。
いくつかのルールのうちの重要な鉄則は「心とそれ以外という線引き」です。
これが曖昧だと、奇跡講座がとても実践不可能な難題に見えてしまいます。
私も最初は「これはこの世で実践不可能な、不条理な精神論かもしれない」と思ったことがあります。
でもそれは、他のいくつかのルールとかかわっていて、
外側は実在している
この世(形)を変えることが良いこと(目的)
自分は肉体である
などの多くの誤解を持ったまま理解しようとするからなのです。
外側は「自我の知覚」の投影であるという仕組みを理解すること
そして自我の知覚は幻想、つまり実在していないこと
自分は肉体ではなく心である
という「見かた」の訓練が必要になります。
世界が幻想に見えなくてはいけないのではなく、その見かたでみようとするということです。
そう「見なす」のです。
するとだんだん、ああ、これも幻想の範疇なんだ、と仕分けができるようになり、それを真理の元に運ぶ手順がすばやくなり、幻想に惑わされ影響を受けることが減っていきます。
これだけで圧倒的に平安が分厚く確立されていきます。
上記のルールは、スピリチュアルや仏教などを学ぶと触れる概念なので、それはわかってるけど、と思われるかもしれません。
よくうかがうのは「本当は自分はスピリットだけど、そうは言っても肉体もあるから」という言葉です。
人がそう言う時は、自分を完全なるスピリットだと受け入れているようで、本当は受け入れていません。
ということは、自分は肉体だと言っているのです。
奇跡講座は、こういうあいまいさを完全に排除します。
全部、どちらか、です。
そうすると今度は別の苦しさがきます。
つまり、そうなれない、できない、という無力感です。
さて、そこで最初のルールに戻ります。
できるとか、なるって、形のことを言っているんです。
行動とか、成果、みたいなものです。
私たちは形に示し、行ったことが真実だと思っています。
でも、奇跡講座では、それらも全部幻想なのです。
心(神、愛、真理)だけが実在なのですから。
真理の実践とは、この世で成果をあげるための教えではなく、真実に戻る道すがら、すべての誤解を解いていくプロセスであり、その道を歩くことが愛の体験であり幸せだということ、そしてその愛と幸せの道は、もれなく完全なる神に続いている、ということなのです。
それはまさしく自分のしあわせとみんなのしあわせはひとつであり、それが神の愛によって保障されていることを、証ししていくということです。
奇跡とは、この道を選ぶ人に与えられる水や空気や栄養のようなものです。
逆に言えば、自我の投影を選んでいるときに奇跡は無価値に見えるものかもしれません。
これは最後にはどうせ誰もが選ぶことになる道です。
どうせみんな、神の子なのですから。
次回のオンライン瞑想会は7月21日㈰午前10時です。
皆様のご参加をお待ちしています。
開催時間 90~120分
オンラインツール zoom(事前にリンクアドレスをお送りします。スマートフォン、パソコンなどでご利用になれます)
ご参加資格 瞑想、自己探求、癒し(ヒーリング)、心理療法、ライトワーク、奇跡講座、真理、潜在意識、真我、心の仕組み、AZUのセッションなどにご興味のある方。対話にご参加いただける方。
定員 1名~10名さままで。
内容 誘導瞑想とシェアリング、質疑応答。進行と誘導瞑想をAZUが担当いたします。お話やコミュニケーションに気が進まない方でも、ご無理なく楽にご参加いただけるよう配慮します。みなさんが分かち合える範囲で分かち合っていただければ、それが大きな実りに導かれると確信しています。
ご参加費 3000円(お手数ですが、お振込みをお願いいたします。リンクアドレスともにお振込み先をお知らせします)
お申込み e-mailまたはSNSのメッセージまたは、公式サイトからline、WhatsAppでお願いします。e-mail ruach(アットマーク)live.jp
お申込み締め切り 定刻の前日20時までです。お申込み、お問い合わせも、お待ちしています。
連日壮大な雲が映りゆく季節を見せてくれます。
昨日はやまびこ公園から降りる道すがら、八ヶ岳の麓の茅野市、原村あたりだけがスポットライトを浴びたように輝いていました。
原村ではすれ違うドライバーがみなさん笑顔で驚いたことがあります。
それだけで、内なる聖性をはっと思い出し、幻想から呼び戻してくれます。
私は長年テレビを持っていなくて、おそらくもう、持っていない期間の方が長いのではと思います。
自分の生き方は、思えば少数派の道ばかりを歩いたようにも思いますが、内面はごくごく普通といいますか、自分を変わっているとは感じていません。
特別でありたいとはまったく思っておらず、みんなとともにありたいという思いは強いのです。
ただ時々、多数派の選ぶ何かにとても違和感を感じることがあり、そういう時には自分がとても狭いところに追いやられたように感じることもあります。
こうなればみんなにとっていいに違いないと思うことが全然支持されず、真逆のことが人気、というような場面ですね。
そんなとき、自分の感覚のずれ具合みたいなものが嫌になったります。
そんなものに意味も価値もないんだということを、重々学んできたにもかかわらず。
そのどうでもいいずれの一因に、テレビ見てない、ということもあるのかもしれないと最近あるきっかけで思いました。
私は父親の仕事がいわゆるテレビ関係でした。
顔は出ないのですがテレビから流れる父の声を四六時中聞いて育ちました。
幼いころはテレビっこでしたし、物心ついたころには、自分もそこに出るということを意識して育ちました。
ところが20代後半に読んだ本がきっかけで、その、あまりにも当然のように自分の生活や意識の中心的位置にテレビがあるということに疑問を持つようになりました。
そして何年か、完全にテレビ断ちをしました。
その頃はインターネットというものも普及しておらず、SNSももちろんないので本当にそういう情報網から離れていました。
最初は明らかに寂しい感覚や物足りなさを感じましたが、代わりに時間の使い方についてまるごと見直すようになりました。
結果、時間もエネルギーも格段に増えました。
なにより、受け身ではなく、自分から働きかけるというエネルギーを取り戻しました。
テレビは持っているけどそんなに見ないほう、とか、番組を選んで見ている(から、自分は悪影響を受けていない。だからテレビをなくしてもそれほどの変化はないだろう)という方も多いかと思います。
私も当時そう思いました。
でもその本には私のそういう考えを見通したように、それでも、テレビを捨てなさいとありました。
数年間、完全にテレビを絶ったあと初めて見るCMは、それはそれは異様な感じがしました。
その感じを今でも覚えています。
テレビがいかに意識に入り込み、それが世の中の本流だと見せかけるのかを体感しました。
その時見たのはシャンプ―のCMでした。
サラサラで、艶やかで、金髪のモデルが映し出されていました。
世の中の本流が目指す先はそれだよ、と、画像は語りかけていました。
その画像から強烈な香料が鼻を衝く感じさえ伝わりました。
それから少しの間、家にテレビがあったりなかったりも体験しました。
最初は不思議の国を眺めるように映像を流し見していましたが、あっという間にそれにも慣れました。
あの強烈な違和感さえすぐに薄れました。
ああ洗脳されているな、と感じたのを機に、またテレビを辞めました。
私は今でも映画をわりとハイペースで見ているのですが、子供の頃にテレビで見たドラマや映画で心に残り大切にしているものがいくつもあります。
でも、それでも、テレビを絶つことはお勧めできます。
そういう時代はもう既に終わっているのだろうと思っていましたが、今回の新型コロナ及びワクチンの受け止めやら、選挙の結果やらを見ていてまだまだパワーを持っているんだなと思いました。
テレビで間違ったこと言うわけない、と、私世代は子供時代に親らか言われて育っています。
もし間違いがあったならお詫びと訂正があるものだと。
そうやって、世の中の本流の考えや価値観というものは共有されているのだ、と。
そんな神話が何度覆されても、それでもそこにはまだ一本の筋道が存在していると、どこかで無意識に信じているのです。
私たちは自分の内側の、信頼に値しない知覚を頼りに判断しています。
いくらなんでも、自分は、社会は、それほど逸脱した間違いは犯さないだろう、と過信しています。
その根拠はなんなのでしょう。
私はすべての人の内なる聖性を信じていますが、それは、自我の知覚とは全く別の次元のものです。
この世界ではことごとく人は間違っています。
この世の善悪の善は、聖性とは似ても似つかぬものです。
沖縄で見聞きしたのは、この世の地獄を直接体験された人の心です。
味方のはずの人が、一番酷いことをする。
そういう裏切りと狂気、その結末を体験された方々のことです。
戦争は、そういう欺きと狂気の宴です。
戦争で良いことをした人と、悪いことをした人がいる。
敵をたくさん殺した人は英雄で敵の家族を殺した人は犯罪人。
でも敵とその家族は見分けられないのです。
テレビにも良い番組はある。
戦争にも良い戦争がある。
殺人にも正しい殺人がある。
欺きにも必要な欺きがあり、裏切りも狂気もしかり。
でもその目的はなに?
濁った電波や善を装った同調圧力を放棄し、心を見ようとしたとき、その答えはそこにあります。
今日は期せずしてこんなお話になりました。
お付き合いくださったみなさん、ありがとうございます。
私たちの心はなかなか自由になりませんが、それは何が束縛しているのかがわかっていないからなのかもしれません。
肉体をいくら自由にしようと努力しても心は解放されません。
なのにこの世にあるほとんどの方法は、肉体をなんとかすればその向こうに自由があるかのようにうったえます。
まるで狂気です。
感謝とともに
AZU拝
みなさん、こんにちは。
ハリエンジュが一斉に咲き、新緑と相まっていい匂いでいっぱいの信州・岡谷市からお送りしています。
ただここ数日は黄砂がひどいので窓を開けられず残念です。
みなさんはいかがお過ごしでしょう。
先日は瞑想会も無事開催させていただきました。
今回も本当にすごかったです。
この会は完全に聖霊監修のもとにおかれているんだということを、皆さんを通して何度も何度も思い知らされております。
今回私は愛というものを直に体験させていただいたと感じています。
ああこれが愛か、という風に感じたのは初めてのことかもしれません。
みなさん、本当にありがとうございます。
この瞑想会には奇跡講座を学ばれている方、触れている方が自然に集まられます。
始めるまでは全く想像していなかったのですが、回を重ねることにこれは偶然じゃないと納得しないわけにはいかなくなりました。
そして恐らく、この瞑想会のすごさ、そのエネルギーは、みなさんが内なる神を求め聖霊を呼び込んでくださったことへの応えです。
瞑想に入ると、巨大な大きな心というスペースに皆で入っていってそこで落ち合うような具合になり、そこに満ちている清らかで壮大な光というのか、神のみ心というのか、そういう慈愛がすべてを包み込むのがわかります。
例えばそこに、聖霊の奇跡を体験したことがない人が参加していると、暗黙のうちに皆が手をつないでその人を包み、その輪の中に溶け込ませるのです。
その場の中で、個々が個々に必要な体験をされます。
あらゆる神との障壁が、個々の心に最も即したかたちでその光に溶かされます。
思考がどんどん浮かんだり、エネルギーを体感したり、感情が溢れたり、ひたすらに広がったり、とてつもなく静かだったり。
感じていることは違っても、内側でなされている一つのこと、きょうだいが心を合わせて内側に向かうと起こる導きそのものが、愛だと強烈に感じました。
これが愛かあ。
そのすごさから見たら、この世の個人技なんて本当に小さなものだなと思えてしまいます。
どんなに偉大と言われ、偉大に見えるものでもです。
だって、すべての人の心はひとつしかなく、すべての人がひとつの目的のために完全につながることができるんですよ。
私たちの小さな小さなコミュニティが、そのやり方を完璧に示して見せてくれるのです。
それは人数が変わろうが人が変わろうが、同じなのです。
私たちは特別ではないんです。
ただ、それに気づいたような気がして、求めて、選んだ人なんです。
そのやり方は私たちの内に完全に装備されていて、思い出されるのを待っています。
みんなでやってみたいなあ。
感謝とともに
AZU拝
◎次回のオンライン瞑想会は、6月2日㈰午前10時から開催します。
ご参加をお待ちしています。
◎個人セッション、講座は、直接いらしていただいてもオンラインでも、承ります。
効果に違いがあるかと時々ご質問いただきますが、違いなくできていると思います。
詳しくはホームページをご覧ください。