以下は、私が配信していただいている教材・授業開発MLに寄稿した文章です。

9月〜10月にかけて発行を予定しているもので、事前に発信紹介するものです。

ご興味ご関心のある方は、私宛にメールを下されば、参加の招待メールを送ります。

 

 

第347号 大谷和明(札幌市立ひばりが丘小学校、教材・授業開発研究所空知支部)

 ~楽しきかな 我が教師修業 その2「有田実践普及の使命を担う」~

 

 現在、私は教育実践・研究の活動拠点として菊池省三さんが主宰する「菊池道場」に参加させてもらっているところである。菊池道場の良いところは、「ほめ言葉のシャワー」「白い黒板」「価値語」といったオリジナル実践を教室現場に普及させることの他にも、これまでの価値ある教育実践も広く紹介しながら、教育の充実を図ろうとしている点にある。ディベートによるコミュニケーション能力の育成は、その最たるものだろう。

 

 現職を定年退職したので、菊池道場の北海道・札幌支部の顧問として後輩教員育成に微力を尽くしているところだが、月例の他に拡大例会としてミニセミナーを開催することがある。菊池道場の特長の一つとして、参加してくる教師の年齢層が若いというものがある。新しく動き始めた教育運動であるから当然なのだが、若いからこそ過去の研究や実践家には疎いという弱点もある。そこを埋めるべく、いろいろと知見を披露しながら、研鑽のタネを撒くのが、私の仕事の一つであると考えている。

 ある時の懇親会で、有田先生を知っている人?と聞いたことがあるのだが、なんと一人もいなかったことがあり、いささかショックを受けたものである。数々の著作物があり、著作集もあり、教科書執筆者としても一流、社会科実践家としても歴史に名を留めるひとりだという私の認識を改めなければならないと感じた一瞬でもあった。勉強会に進んで参加し、なおかつ懇親会までにも参加してくる熱心な教師ですら、有田先生が亡くなってからわずか数年しか経たないという現状を鑑みても、一時代を一緒に現場に身をおいてきた者としては、有田実践をしっかり紹介していく必要があると感じている。「継承セミナー」がもつ意義を改めて感じているところである。

 

 インターネットが普及し、ネット検索が手軽にできる時代となったために、授業のネタや指導案の収集に至るまで、自分の頭と足で汗して集める作業機会もまた減少してきているような気がする。かつて、本MLでも発信し、さくら社HPでも紹介されたことがある私の昆布修業記は、徹底した現場主義者であった有田先生にも喜んでいただくことができたかと思う。教材開発や教材研究というものは、自ら動いて頭脳を働かせてこそ血肉化するものであり、それだからこそ授業でしっかり使えるものになりえるのだと考える。

 何よりも教材開発にとって欠かせない最重要の資質は?と問われれば、私なら「飽くなき探究心」と答える。何事にも興味関心の塊として対象物や事象に取り組んで来られた有田先生の「追究の鬼」を育てる実践は、ご自身そのものの研究姿勢を反映されているものであろう。

 何よりも追究の鬼となれば、遊びと勉強の境目がなくなるものである。下関の福山憲市さんが担任時代に子どもたちから寄せられた「自学ノート」を積み重ねたら教室の天井までにも達する程のものになったと紹介されていたことがある。福山さんは最近では、ご自身を「授業屋」と称されているが、師匠である有田先生を追いかける姿を、そう表現されているのだろう。いつまでも実践の情熱を失わなかった有田先生へのオマージュを感じる好事例かと思う。

 とかく子どもたちに人気の教科をアンケートすれば、体育を筆頭に国語や算数などの教科が下位にランキングされがちなものだが、国語の分析批評を取り入れた討論の授業を構築された向山氏の教室では国語科がトップになったことがある。

 子どもにとって、知的好奇心を満足させられるものであるなら、教科内容に差はないのである。

 要は、子どもの知的好奇心に長く灯をともしていくだけの働きかけを教師自身がどれだけできるか?という研究的実践をモチベーションとして持ち続けられるかにかかっていることなのだと思う。

 

社会科の著名実践家であった故・有田和正先生の実践や教材開発についての情報交換となっている「教材・授業開発研究所メーリングリスト」に参加希望される方は、大谷@FreeTalk までメールを下されば、ご招待いたします。

以下は、私が配信していただいている教材・授業開発MLに寄稿した文章です。

9月〜10月にかけて発行を予定しているもので、事前に発信紹介するものです。

ご興味ご関心のある方は、私宛にメールを下されば、参加の招待メールを送ります。

 

 

第346号 大谷和明(札幌市立ひばりが丘小学校、教材・授業開発研究所空知支部)

 ~楽しきかな 我が教師修業 その1「有田先生に救われるの巻」~

 

 私と有田先生とのお付き合いは、教職8年目からである。初任校5年(えりも町立笛舞小学校)で道南 松前町立大島小学校へと異動した私は、当時、徐々にうねりとなってきていた法則化運動に大きな関心を持つようになり、町内の若手小学校教師宛に勝手に自前の法則化通信を送りつける「ゲリラ作戦」をするようになっていた。通信文化といっても、まだまだ郵便を媒介とするものであり、パソコンによる通信はせいぜいが2400bpsの超!低速環境で、なおかつ通信料金もべらぼうに高額な時代背景にあり、郵便による印刷物の交流がメインであった。

 全国のサークルでサークル通信が発行されており、それを送ってもらう形で進めていた。慣例として、返信用の切手付き封筒+謝礼分として10回分の切手を同封するというスタイルであった。

 ようやくワープロ(専用機)が普及し始めたところでもあり、手書きものとワープロ印字での印刷物が混じり合っていた。この頃のワープロは圧倒的に感熱式のプリンタが多く、私が使っていたのは、canonのキャノワードである。

 

 さて、自分の実践や全国の法則化運動の動向などを印刷配布していた勝手通信にも反応してくれる人が何人かいてくれて、そのメンバーでサークルを立ち上げた次第である。これが「道南フリートーク」である。校内にもメンバーがいてくれたおかげで、授業公開しあったり、授業交換したり、そのことを元に職場でサークル活動のマネごとをしながら、研鑽の日々を過ごしていた。

 すでに法則化運動代表の向山洋一氏が明治図書の全面的な支援を受けて、全国縦断講演会を開催しており、ほどなくして函館でも開催することとなった。当然、運営の重責を任されることとなったわけだが、ただの一教師が大きな研修イベントなど開催したことはなく、ましてや書籍販売の促進としての地元大型書店(協賛企業として欠かせない存在である)との事前折衝なども行い、これがとてもよい経験となったものである。

 

 法則化運動には立ち上げ当初の大型企画として、「有田和正 向山洋一 立会授業」が筑波大附属小学校 有田学級で行われ、授業研究誌の別冊として発刊されていた。すでに、全国区となっていた有田先生は、NHKの看板番組「おもしろゼミナール」の教科書問題スタッフとして、向山氏とも面識があり、法則化運動へのよき理解者協力者として、さらに存在感を発揮されていたところである。

 有田先生は教育出版の小学校社会科教科書の執筆者でもあり、奥付けのトップに名を連ねるほどの著名な実践家だったので、私から見れば雲の上の人であった。

 

 全国縦覧講演会の流れは、前座に法則化運動の中で開発されてきた教材・教具の効果を示範する石黒修氏の講座に続き、メインの向山洋一講演会となる。法則化運動とはどういうもので、教室現場にどのような変革をもたらすのか・・ということを、様々なネタを駆使しながら話が展開されていったものである。

 

 函館講演会が迫り、入場整理券もほぼ配布が終了し聴衆者一覧作成に着手し始めるところで、予想もしなかったアクシデントが発生したのである。なんとメイン講師の向山氏が腹膜炎のために緊急手術することになったのである。その時にピンチヒッターとしてご登場いただいたので、有田先生なのであった。法則化運動の協力者として、江部・樋口の両編集長からの要請にご快諾いただいたのだろう。ちなみに、この時は、全国縦断講演会に引き続いて、一泊二日の地方合宿も予定されており、3日間通しで法則化三昧の研修会を開くことにしていたので、主催者としてはほっと胸をなでおろしたものである。

 余談ながら、この機会を捉えてサークルから出版物を出そうという算段も整っており、『法則化双書 子どもを変える手立ての定石』が用意されており、合宿でお披露目されたものである。

 

 この時の有田先生のネタは「パイナップル」であった。(パイナップルのネタについては、関係書籍をご覧ください)函館空港から会場までの途中で、パイナップルを購入された有田先生は、いつものネタ話をユーモアたっぷりにお話して下さった。聴くと、どうも私の中学時代の同級生の実家である青果店で購入されたらしかった。

 

 この講演会の開演に先立ち、教育出版の社員が表敬訪問されており、さすがに教科書執筆者ともなると凄いものだなと感心したことを覚えている。

 

 全道各地から、一部本州からも大勢の参加者を迎えることができ、なんとか講演会を終了し、法則化中央事務局のメンバーと私のサークルメンバーやサークル代表者たち、有田先生と江部・樋口両編集長たちと函館山の夜景を堪能の後、懇親会へと移動しながら、楽しいひとときをおくることができたのが、とてもうれしかった。懇親会でも有田先生ともお話させていただくことができたのだが、この時の思い出として強烈に残っているのが「いももち」である。

 じゃがいもとデンプンをこねて焼いたものに、甘醤油を絡めた北海道では馴染みのあるものながら、有田先生が大層喜んで召し上がっていたものである。

 翌日からの合宿も控えていたこともあり、有田先生と江部・樋口両編集長とともに宿泊先のホテルまで見送りさせていただいた。この時に、江部さんからは「ぜひ、理科で一冊出しましょう。」とお声掛けを戴いたものである。ありがたいことに、私のサークルからは共著・編著ではたくさん出版の機会をいただくことができ感謝している。

 その江部編集長も鬼籍に入ることとになり、先に召されていた有田先生とは天国で教材開発のお話でもされていることだろう。

 

 その後、在田先生とも知己を得た私のサークルは、メンバーの松本明さんが中心となっての勉強会を開催することとなり、私が札幌に異動してからは「教材開発セミナーハウス」のメイン講師としてさらに交流を深めることとなっていくのであった。

 

社会科の著名実践家であった故・有田和正先生の実践や教材開発についての情報交換となっている「教材・授業開発研究所メーリングリスト」に参加希望される方は、大谷@FreeTalk までメールを下されば、ご招待いたします。

【20190518菊池道場北海道札幌支部勉強会報告】

 

16年ぶりに戻ってきた勤務校(札幌市立ひばりが丘小学校)で5月例会が行われた。

たくさんのフレッシュメンに参加していただき、あらためて菊池道場の勢いを実感することができた。

今の若者は私の新採用の頃とは比べものにならないくらい優秀かつ真面目な方が多いと感じている。そんな方々の中からでも、着任早々退職してしまう人もおり、貴重な人材喪失の現状を感じるのもまた正直なところである。

本来、教職とは夢と希望に溢れ、OJTを実感できる職場であるはずなので、少しでもリタイアした者でも応援していけたら・・と思っている。

 

さて、今回は前回(4/27 かでる・27)の続きで、3月23日に開催された耳順セミナーでの私の講座をボリュームアップする第二弾として約1時間をもらって話したものである。

 

冒頭、新学習指導要領での家庭科に新たに導入される学習内容に関する発表とそれに対するコメント、持ち上がり6年生の学級実態に対するコメントを話した。それだけでも15分程度かかってしまった。

前段は苦言を少々話したのだが、現場教員として学習指導要領の内容検討にあたっては、実践したものでの問題・課題を教育課程研究集会の場で、しっかり提言することが重要だと話した。

ところが、現実問題としては、各教科での提言者は教育委員会(諮問としては、公的な教育研究機関での代表顧問=校長と相談しながら)が、現場で割当指定してくることが多い。私が若い頃には、組合支部に呼ばれて、提言者へのエールを送られたものである。そもそも学習指導要領に反対する立場の組合としては、しっかり批判してこい!との意味合いがあったわけだ。

そういうことは抜きにしても、指導内容に関して賛辞を送る提言よりも問題・課題を共有し、少しでも改善していくための行う実践発表が提言であると信じて、私は参加してきたものである。

過去、理科では提言・司会とも経験がある。

 

そこで今回の勉強会講座では「授業」のアップデートを取り上げた。

もとより、教師たるもの授業で勝負が責務であるので、学級経営のノウハウやスキルアップに傾斜しがちな研修姿勢にアンチテーゼとして示す意味合いもある。

くくり方としては、学級経営の一部に授業は含まれるものであり、圧倒的時間が保証されている授業を通して、学級づくりを行うのが正統な道であろう。

 

(1)国語の時間を有効活用しよう

誰もが重要教科として認識している国語科なのだが、潤沢な時間を充実した時間として使っている教室が少ないと感じてきた。

師匠の野口芳宏先生(以下、野口先生)が、かつて講演の際に参加者にアンケート調査したことがあり、「自分の国語学力が国語の時間に形成されたと思っている人?」に対して、ほとんどが「そうは思わない」という反応を示したということである。実感として私も同感である。

自分の国語学力は、学校ではなく、自ら獲得形成してきたという印象である。

 

野口先生は「見える学力、使える技術」として国語学力の形成(向上的変容)の自覚を促す講話をされるのだが、実用国語として国語学力を培おうという当たり前とも言える職責自覚が足りない教師は多い。教材研究の不足もあり、とりあえず発問(思いつきで発する発問。教師の解を求める発問が多いものである)を繰り出して学力が形成されることを期待するのが、基本的に間違いである。子供の思考力を働かせるには、相応の教材研究を経ての発問でなければならないのである。

加えて、我々が思考する際に使っている言語が母語(日本人なら日本語。イギリス人なら英語。フランス人ならフランス語)となるわけだから、抽象性の高い語彙をいかに多く獲得し、組み合わせの技術、処理速度の高速化が高次な試行結果を生み出すことができることになる。もちろん、平易な言葉をわかりやすく話すことも重要であるが、これがこれで難しいものである。専門性が高くなるほど、平易に話すことが難しいということからも分かることかと思う。

 

講座の中では、小学校1年生の入学当初の国語教科書にある「挿絵だけの頁」をどう授業していくかについて語った。文字がないので、当然音声言語だけでの授業となるわけだが、そこでどんな問いを発し、反応の絡ませや授業の展開をどう組み立てるか?という見通しを持たないで授業に臨めば、離席や不適切発言やいたずら注意などといった無駄な時間が浪費される惨状が生まれる。

 

(2)授業デザイン~インストラクションとしての授業意識

教師はティチャーではなく、インストラクターの自覚を持つことが、これからの教育現場ではますます重要となる。

もとより、児童生徒の能力開発が務めのわけだから、教師がどれだけしゃべくり倒しても、それが子供の能力開発に繋げていくのは難しい。

陸上競技を例にするとわかりやすい。

コーチが口や教科書だけの座学提供で、選手を育成できるか?ということである。

効率的かつ効果的・自発的に適正な運動を促すことにより、アスリートとしての発達が保証されるのであり、教室現場でも理屈は同じことである。

子どもの脳みそをどれだけ働かせるか?という授業課題なき教師の指導に、どれほどの効果が期待されるであろう。

さきの国語科の指導にも関連してくることだが、思考のための論理を鍛える意識をもって国語科指導をしている教師はどれだけいるだろうか。

こと論理というと科学的な要素を受けやすいものだが、科学とは自然科学も社会科学もあり、帰納的な検証にせよ演繹的な検証にせよ、構造的な思考展開を進めていくことが論理を鍛えることに繋がるのである。

授業を組み立てるにあたり、材料たる教材をどう加工(教材研究)して提供(授業・学習)するか、そのために効果的な道具(補助教材や教具)をどの場面で使うか?こういうことが教育工学で扱われてきた歴史があるが、さらに完成した全体像をイメージするために「デザイン」という言葉を目にするようになってきた。学習科学が広まることにあわせて、デザインという感覚も必須な時代がやってきたということであろう。

 

(3)成功を目指す授業でも失敗はつきもの

誰しも授業が成功(目標達成)を目指して行う。ましては、研究授業となればなおさらであろう。しかしながら、その意に反して、思うようにならない結果が漏らされるのがほとんどであり、不備不足不十分な準備を反省する結果で終わることが多い。時には、計画した指導案を捨てて、その時の状況に合わせて変更してしまうことすらある。無理に計画通りに進めれば、授業破綻が目に見えていたり、より高い成果が期待される展望があれば、そちらの道を選択するということもよくある話である。

同一条件下で行われる検証実験と(指導案に基づき、生物<ナマモノ=人間>相手で学級という確定できない変数としての社会構造下での)授業検証とでは自ずと異なるもので、だからこそ面白いとも言える。研究実験であれば、そのほとんどが失敗の繰り返しである。そして、それが当然であるがため、失敗にめげずに次のアプローチを再考していき、結果としての成功にたどり着けるものなのである。

教育科学者としての教師である自分が、臨床実験として授業をしているというメタ認知を持つことが成長していく教師にとって最も重要なことである。

肝心なことは、どこに欠陥があったのか、なにが間違ったのかという原因究明が、教師の成長に繋がるという自覚をもつことである。

同じ失敗をしないで経験を積んでいけば、失敗の少ない授業力量を形成していくことができるはずなのである。

授業研究では、大した感動があるわけでもないのに、教師や児童生徒をやたらと褒めちぎって誤解錯覚をもたせてしまうことが見受けられるが、むしろうまくいかなかったことを協議する方がよほど建設的なことが多いものである。

研究視点を持って授業の臨む教師であれば、失敗を有効に活かし次の成功へと結びつけることができるだろう。

だからこそ、自らの成長を希望する教師なら率先して授業提案者を買って出るべきである。

古いファイルやデータの整理をしている中で見つけたもので、長文なので注意。(^0^)
どうも『落伍させない教育法』(田中茂樹著;サイマル出版)からの抜き書き記録のようです。途中、私の脚注があったりしますが、指導のヒントになる事柄が書かれてあります。
鈴木先生とは、鈴木メソッドの鈴木鎮一氏のことである。

https://www.amazon.co.jp/%E8%90%BD%E4%BC%8D%E3%81%95%E3%81%9B%E3%81%AA%E3%81%84%E6%95%99%E8%82%B2%E6%B3%95%E2%80%95%E9%88%B4%E6%9C%A8%E3%83%A1%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%83%89%E3%81%AE%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%81%A7%E3%81%AE%E5%AE%9F%E8%B7%B5-%E7%94%B0%E4%B8%AD-%E8%8C%82%E6%A8%B9/dp/4377402684


【反復練習の意味】P.31
 反復練習を、程度の低い学習方法のように考えると、これは大変な間違いです。「繰り返しによって上達する」というのは、「条件反射」という、大脳の生理的な神経系の基本的な法則でもあるわけで、新しい行動を繰り返してやることによって、まったく新しい神経の結びつきが、大脳の中に生まれてくるのだと言われています。何事も反復練習なしでは身についた能力とはなりえません。
 小学校1年生でひらがなを習い始める時、これこれの字を練習するように家庭学習をだすことがあります。この時子供たちによく理解させてださないと、たくさん書いてくることがよいことだと誤解されて、乱暴な字を何ページも書いてくる子がいます。義務感での繰り返しは、文字を書くことへの嫌悪感と下手な文字を繰り返し書くことによって、下手な文字の習慣をつけてしまうことになります。
 鈴木先生はこういわれます。
「能力は・・・訓練のあるままに育つものである。よい能力を育てようとするなら、正しくてよい訓練を行わねばならない。よく子供を叱って育てる親がある。そこには、〈叱られる能力〉が生まれて、叱られることに対して、なんらの感覚も感じなくなっていく。すると親はさらに強く叱らなければならなくなる。・・・〈叱られる能力〉はさらに強く成長し、手に負えなくなってしまう。
 訓練のないままにすててあるものは退化する。能力を発揮する道具(脳)は生き物である。その発育に必要な栄養は訓練である。生き物である以上栄養を与えないでいつまでもすてておくと、衰弱していくことは当然である。」

 まとめ  ① 正しい訓練をしなければ、正しい行動の仕方は身につかない。          ② 訓練をしないで放っておくと、その機能は退化する。

 訓練とか練習とかをもっとも排除すべきものとして立ち上がった創造美術教育(創美)の北川民次氏は言う。
「習う精神こそ創造的精神です。どうして訓練がいけないのですか。見方によって、教育とは元来訓練であるともいえます。」

 田中茂樹(『落伍させない教育法』の著者)は言う。
「抑圧を開放(となっているが-解放-の間違いではないか?大谷)し精神を自由にしてやれば、子供たちは立派な絵が描けるようになるというのです。しかし、抑圧の開放ということは容易なものではありません。ひとつの抑圧が開放されると、それがまた新しい抑圧となってしめつけてくるからです。しかし、一般的には先に記述したように、子供たちが喜んで絵を描くようになる最初のところで満足して抑圧の開放ができたと思いこんでしまったようです。・・・次つぎと新しい課題抵抗を与えて、それに進んで立ち向かい克服しようとする精神を育てることこそ創造性の育成です。ここに訓練がなくてはならないのです。・・・・・反復練習とは、同じものを機械的に何回も繰り返すということではなく、いろいろな場で、論理としては、ひとつのものを、具体的にはいろいろな形で、何回も行動させるということです。」

【飛躍を生む指導】P.34
 教材の与え方とその指導方法について鈴木先生は次のように言われる。
「・・初歩は初歩なりにできればよいなどと考えることがすでに最初の失敗である。子供たちが簡単に真似ができる最初の一歩から力の育成を目指して、真似だけで終わらせず、反復練習とその矯正を行い、その中から力をつくりださなければならない。
 箇条書きにすると次のようになる。

① 極めて少量のことから始める。
② それを自由自在になるまで訓練する。
③ 自由になったものを立派に矯正する。
④ 力が育ってくるのを注意する。
⑤ 少量新しく加える。(ただし同じ程度のもの)
⑥ でき上がる速度が違ってくる(才能が始まる)
⑦ 前のものと新しいものと二つを訓練する。
⑧ 前のものをますますよくする。新しいものを立派に矯正する。訓練をやめない
⑨ 前のものがますます立派になる。(才能が育つ)新しいものが立派に自由になる。
⑩ 第三のものを与える。(程度は同じ)
⑪ 能力が増しているからできあがる速度が一層短縮される。(短縮がなければ力は増していない、訓練不足の証拠)
⑫ 第一、第二、第三を訓練する。
⑬ 第二のものが第一と同じくらい立派になる。
⑭ 第三をよく矯正する。
⑮ 第一、第二がますます立派になる。(才能が育つ)
⑯ 第四を与える。(ここで少し程度をあげる) 能力を育てる訓練のあるところには必ず能力の飛躍が始まる。飛躍の始まらない教育は失敗である。この能力の飛躍を認識して、これに適した教材の飛躍を行う。 これを知らない指導者は伸びる力を伸ばすことができない。子供の能力の伸び方は、指導者の能力の高さに比例する。

 以上が鈴木鎮一の落伍者をつくらない指導理念の要点である。

【飛躍を生む指導-前まわりができる】P.35
 鈴木式の指導原理で前回りを指導した例。

(1)前まわりは三歳の子供にもできる大変やさしい簡単なことである。
(2)しかし正しく前回りができるというのは決してやさしくはない。・・あるスピードをもって、ころころ自由に回転させるまでには相当な練習がいる。
(3)正しい姿勢が崩れないように矯正する。(この部分大谷が要約記述)
(4)回転後の姿勢がすぐ次の動作に移れるようになる。
(5)連続回転に進む。
(6)基本ができているから早く要領をつかむ。
(7)一回転で立ち上がったり、二回転で立ち上がったり、三回転で立ち上がった   りする。
(8)何回か連続して正しく立ち上がれるようになる。
(9)連続回転にリズムとスピードがでてくる。
(10)マットをとり直接床の上で最初の前回りから練習をやり直す。
(11)どこでも痛くない回り方を自分で発見させる。
(12)マットにかえる。マット上でのまわり方がさらに上手になる。
(13)床の上で連続回転をする。マットで連続回転をする。
(14)マットでも床でも同じ用になるまで練習姿を矯正する。
(15)マットなしでも立派に連続回転ができるようになる。
(16)とび箱の頭をとり、その上で台上前まわりをする。
と、以下、順次台上前転づくりへと発展していくことになる。

これは以前、雑誌投稿された原稿である。元原稿は縦書きである。また、一部修正変更してある。

 

新年度が始まりGWを経て、落ち着いて学習できる学級と崩壊に向かう途上の学級が目立つ時期でもある。

立て直しの取っ掛かりとして、やはり「きき方指導」というものが重要であると感じている。

※元原稿には枠組み表記されているのだが、ここではそのフォーマットが反映されていない。

行間の間隔スペースが該当部分であることを念頭に置き、お読みいただきたい。

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聴く態度づくりで基礎をつくる

 

                      大谷 和明

 

一 黄金の三日間に満足された方へ

 

 黄金の三日間」は学級経営上では最重要課題として毎春毎春繰り返し強調されてきている。

 本誌が発刊されている時期は、とうにそれが終わってしまっている四月の中旬である。

 「黄金の三日間」に満足いく結果を得ている教師にとっては、日々の授業充実に力を注いでいることだろうし、そのことで「学習する集団」形成の途を歩んでいるとみてよいであろう。

 問題なのは、すでに学級経営に不安を感じつつあり、「黄金」時期を不毛に過ごしてしまった方々である。

 

二 基本づくりを徹底する

 

 どの学年層をとっても、集団づくりで欠かせないことは、

 

一年間通す指導姿勢を明確に示す

 

ということである。

 例えば、

① いじめは許さない

② 全員を平等に扱う

③ 学級構成員の権利を保障する

ということだ。これらは、黄金の三日間の中で示すことである。しかも、毅然とした態度で示すことである。

 そして、そのことに子どもたち全員(一人たりとももらしてはいけない)に同意賛同させるのである。それは、

 

学級づくりのための基本的契約

 

となるからである。

 「全員平等」とは、意識していても教師自身が気付かずに、契約破棄していることがある。

 その好例が「赤鉛筆」指導である。

 『勉強時間に必要ものですから、全員(!)赤鉛筆を持ってきて下さい。』「先生、赤鉛筆がないので、赤いボールペンでもいいですか?」「赤のサインペンでもいいですか?」

 『全員平等』の根幹が分かっている教師は、これらを許さない。子どもの気を引きたい、嫌われたくないという思いがあると、つい、『ああ、いいですよ。』と寛大な態度を示してしまう。しかし、これは寛大どころか、学級崩壊のほころびであることを賢明な教師は知っている。

 

学習集団を創るリーダーは教師

 

であることを自覚しているから、あめ玉だけで子どもを釣ろうという打算的な考えは持たない。

 リーダーシップを子どもたちに感じさせるから、安心してついていこうとう気持ちが生まれるのである。

 

三 学習場面で具体的に示す

 

 群れを集団にしていくものは、

 

規律

 

である。それを学習場面で適時取り上げて、伝達することが肝心である。

 発表・発言場面をみる。

 大方の教師は、発表者への指導に力を注ぐ。これは二の次である。まずは

 

きき方を指導する

 

のである。高学年段階では、メモを取りながらきく習慣を形成する。

 前学年段階で「聞く」程度にとどまっているものならば、「聴く」姿勢を要求する必要がある。

 第一に、発言者を注目させる。

 第二に、態度で示させる。

 具体的には、発言者の方へ体を向け、賛同のうなづきや疑問の首曲げ、反対の挙手・・といったボディランゲージを示させるということである。

 発表する者は、それだけで緊張しているから、真剣に話そうとするものである。

 初期段階では、話し手の受け皿としての聴き手を鍛えることが必要だ。

 

聴き手に作業を求める

 

ことが指導のコツである。野口 芳宏氏の実践で有名となった「○×ノート指導」である。

『今の意見が正しいと思った人は○、間違いだと思った人は×とノートに書く』これだけの指示で、聞き漏らしは失敗・・という自覚を生む。それでも『なぜ、○にしたのですか?』と問うと、しどろもどろで返答に窮する子どもが必ずいる。そこでつっこむ。

『聞こえていましたか?』聞こえていなかったということが多い。すかさず迫る。

 

聞こえなくてもいいんですか?

 

当然「ダメ」だと答える。『では、どうするのがいいんですか?』と理想とすべき学習行動を問う。大抵の子どもはここで素直にこう言うものだ。

 

聞こえなかったのでもう一度言ってください。

 

 私は高学年を担任した時には、更につっこんで問う。

聞こえなかったのですか?』

「・・・聞いていなかったので、もう一度言ってください。」

 教師の指導姿勢に気付いた子どもは自戒の念をもつものである。そして、その態度には賞賛を贈る。

『偉いですね。次は、きっと一度で聞き取ることができますね。』

 こういう応対の中から、学級の中に基本的な学習規律が生まれる。あとは、手抜きにならぬように、時々注意を喚起することである。

 

四 発表者を鍛える

 

 「聴く」次の段階は「訊く」である。「○○さんは、△△について、□□といいました。私は、それに賛成(同じ)です。それは・・・」のように、自分の意見内容の前に発表者の発言内容を反復させることである。 

 四月段階は、どの学習場面でも繰り返し指導することである。その先に、「学習する集団」が見えてくるだろう。