【記録長文】
おは吉田、震災から14日。
震災以降、熊本の余震の回数が1000回を超えました。
ニュース速報が流れました、なんかの記念かw
さて、ちょっと振り返ってみます。
2016年4月14日21時ごろ
21時、僕はボーカルレッスンのお仕事で近所のイオンにいました。
その前に明日の子供の歓迎遠足の買い物のため、一度家に帰っていて
あわてて20時にイオンへ行っていました。レッスン終了後、会社へ戻り
新しい1-GATAのアルバムの話を社長、みっちーとしていました。
そして
2016年4月14日21時26分
会社が揺れました、「おや?地震かなぁ?」と思った瞬間でした。
すべてのモノが揺れだし、これは大変な地震だ。。と判断。
みっちーは大慌て、そして冷静な社長「すぐに外へ」
地震がおさまり、社内は意外とモノは倒れていませんでしたが
ツイッターをみて僕らは愕然とします。
熊本:震度7
血の気が引きました。
うちの会社のマンションは新築だったので大丈夫だったのですが
とにかく家に電話しました、facetimeで(こっちはつながる)
何度かかけると赤子の鳴き声と娘の怯え声が
3人お風呂中に被災。
遅くなってしまっていたらしく、長女と嫁とお風呂、外に次女(0ヶ月)
そこで地震、慌てて嫁は次女をかくまい、長女はお風呂に一人だったそうです。
他友人らに連絡をとりつつ、自宅マンションへつくと
駐車場にはたくさんの人が、そしてマンションの地盤には
大きく地割れが起こっていました。
3人の無事を確認後、何回も地震が起きます。
長女は怯え、2Fの中学生、高校生にかまってもらってました。
家にはまだ入れそうでしたので俺が代表して部屋に入りました。
そこは散乱したうちでした。
とにかく僕は薬を確保、もともとすべて近場においていたので一袋にまとめ、次女の
赤ちゃん用具、食材や水をもち、部屋を避難。
そしてその時に祖母のトイピアノを救い出してきました。
駐車場では右往左往する人ばかり、すこし落ち着いたのか家族は車に戻り、僕は外で
子供たちに「トイピアノ」を弾いて見せたり、とにかく楽しい雰囲気を作ってました。
その後挨拶に2Fの人に話しに行くと「あの時は楽しかったですw」と(笑
そこのお父さん、公務員の方だったんですが震災後すぐに役所へ向かったそうです。
家族を残し、仕事に行かねばならないことにどれだけ不安があったでしょうか・・。
しかしそこのお母さん、子供がいってました「お父さんの仕事だけん、みんなを救いに
いっとるけん、仕方なかよ。」凄いな、、と思いました。
このとき、まだ実は心に余裕がありました。
まさかこれが前震とは思いもしませんでした。
そうなんです、まだ熊本の町もそれほど壊れてなく、人やモノもなんとか大丈夫だった。
夜はなんとなく被災した会社が安心だったので家族で会社へ避難しました。
そして何回もおきる余震を感じつつ、会社で眠りました。
2016年4月15日
僕の実家は益城町広崎。
そう一回目のこの時から益城町は「震度7」。
実家も大変な状況とのことで様子を見に行くと・・・
大変でした・・・モノはすべておち、しかしもう父母ともにまだなんとかなる。
な、感じでもうすでに片付けも始めており、すごいなぁ。。っと思ってました。
で、自宅にもどり、こわがりつつも部屋を片づけでやっぱり夜は会社で寝たいと
娘が言うので会社へ戻りました。すごく夕焼けがきれいだったのを覚えています。
10時前には寝たかなぁ、あぁ疲れたなぁっと気づいたら寝ていました。
4月16日午前1時15分
次女が泣くのでなんとなく目が覚めました。
ああ、こんな生活のなか、この子は大変だなぁとか想いつつ、トイレに行き
もう一度寝床につこうかなぁーとか思っているときでした。
4月16日午前1時25分
うちの会社は、熊本市。
そう震度6強。
本震がおきました。
お、ドーンと音がして強い揺れが来た、と身構えたとき、気づきました。
「これはヤバイやつだ・・・!!」すぐさま子供を守り、ああ、どうしようどうしようと
恐怖から落ち着け落ち着けと混乱していました。揺れから15秒ほどでしょうか?停電
しました。そしてモノが倒れる音、外からはガラスの割れる音、叫び声。
どのぐらいでおさまったのでしょうか・・・揺れが収まり、携帯の電気であたりを照らすと
会社のモノが倒れてました、でもそれほどではなかったです。
その後慌てて外に出るとたくさんの人が外にいました。
そのときです「津波注意報がでました、建物の高いところへ避難してください。」と。
また慌て次女を抱え、マンションの上へ逃げようとするとマンション屋上には上れず・・。
結局また下におりるとそこには同じ赤ちゃんを抱えた夫婦が、しかしお父さんはどこかへ
行こうとしてました。「実は夫、新聞記者なので仕事にいかねばならなくて、、一緒に
すみません、行動共にできないでしょうか?」とりあえず快諾しました。が、結局旦那さん
支持で家に待機となったようです。
その後刻一刻と状況が変化すると考え、僕らは近くの「白川中学校」へ避難しました。
しかし体育館が使えず、グラウンドに誘導されました。
グラウンドにいても続く余震、ツイッターやラインみると衝撃的なニュースがいくつも
飛込み、そしてまた「助けて」との書き込みをみます。
ただただ無力を感じ、何もできない自分へ力なさを感じます。
しかし0ヶ月と8歳の娘の家族を守る自分にはいますぐにはなにも動けず・・。
益城の実家の両親、嫁の両親も無事が確認でき・・気づくと朝4時半になりました。
本当に寒くて、震えました。
その後赤子やご高齢の方は・・と中学校中に案内され、中ですこし温まることができました。
しかし余震は多く、そのたびに恐怖がきます。
あんなに朝が来るのを心待ちにした日はなかったと思います。
薄明るくなり、空はきれいでした。
震災があったとは思えないぐらい。
しかし街の様子は傷ついてました。
朝7時、僕らは崩れた壁などをよけながら会社にもどりました。
TVをみて、愕然としました。
実家の益城町、阿蘇大橋、そして阿蘇神社。
見慣れた場所が・・・阿蘇神社をみたときに泣いてしまいました。
でも「いま心折れたら子供を守れない」と想い、下唇をかみ、奮い立ちました。
あの日、2週間前はそんなでした。
※画像資料はWikipediaより。

そして熊本の今です。
まず僕が住んでいる、熊本市。
ライフライン、水、電気、ガスですが地域によってまちまちです。
幸い僕が住んでいるあたりは自宅も会社も5日ぐらいで復活しました。
食材や水も日用品も、おかげさまで流通のスピードは速く、気づけば
コンビニやお店で買えるようになりました。
ただ、まだみんな住んでいた場所に不安が多い人が多いです。
うちのマンションもそうですがヒビやズレが多く、それを判断してくれる人の
手が回っておらず、本当にすんでよいのか?わからない状況です。
また2度の大きな夜の地震のせいで、みんな夜が怖いようです。
日中は渋滞がひどいのですが夜になると誰もいません。
コンビニもお店も電気をつけないので死んだような街になります。
そのためか、まだ車中泊や避難所へ居る人も多いです。
本当は経済も生活もがんばれば回る状況なのかもですがそこまで勇気が回らない人が多い
そんな状態です。
じゃぁ今はどこがひどいのか?それは益城町、阿蘇方面の方々です。
所謂、ライフラインが遮断、もしくは建物の崩壊が激しく、住めない方々です。
そこを今はどのようにしていくか、助けていくか・・が大切だと思います。
まだ水が足りない、とのお話はよくききます。
が、絶望だけではないです。
動ける人、がんばれる人たちはみんなもう新しく動きだしています。
確かに今は日常の中に突然現れる不自由も多いです。
でもですね、これは持論なんですが、この動きだしてる人たちって
僕の持病、1型糖尿病と闘ってる全国の仲間たちに
似ているんです。
それは「勇気を持ち、生きている人」です。
僕の1型糖尿病はインスリンが分泌されないために、1日4回程の自己注射をしています。
みんな発祥したころは「絶望」しかありません、だって「障がい者」みたいなんですもん。
でもね、みんな途中で気づくんです、「不自由だけどがんばれる」って。
どうしてもいきなりの不幸や厳しい環境になると人はダメになっちゃいます。
でもそこでその自分を認め、奮い立ち生きようとする、それが必要になるんです。
障がいも同じように僕らの1型糖尿病はもちろんですが重い、軽いがたくさんあります。
でもそれはみんな想いは一緒です。そして気づいたら誰かが支えてくれてます。
まずは「勇気」を持ちましょう。
そのために今支援していただく、
本当に熊本に必要なことは
「熊本を元気にしてくれること」だと思います。
それはもちろん、経済活動だったりもします。
当たり前のように来てくれていて観光客も減ってしまうでしょう。
当たり前のようにご飯をたべてた、当たり前のようにしようとしてたことが
できなくなったり、自粛になったり・・・。
結果、熊本は死んでしまいます。
だからこそ、今県外で「何もできない」って思ってる人は
「熊本のモノを買ってください」
それは募金と同じです、結果熊本が潤います。
いろいろと今は募金活動ってのが多いですが
できれば顔がわかる募金がよいと思います。
ええそれは「熊本にお仕事を発注してください。」これです。
僕らは今は少し歩みを止めてしまい、つまづいてしまって動けないところもありますが
すぐに歩き出せます。それにまず必要なのは生きる活力だと思います。
生きる活力=それは仕事、人のためになることなんです。
僕らは熊本が大好きです。
がまだすばい、熊本!


