私はいくつかのカウンセリング資格を持っている。



だけど、それも何かが違うなぁと思っていた。



カウンセリングの多くに必要な要素は共感で、相手との信頼関係によってカウンセリングが成立する。



けれど私は共感することが苦手だ。



色々試行錯誤した結果、私はどうやら軽度のASDだということがわかった。



それから色々な疑問が解けていった。



営業で好成績、何なら過去最高記録を残したりしていたので、まさか自分がASDとは思わなかった。



だって営業に必要なスキルはコミニケーション能力だと思ってたから。



だけど、営業に必要な能力は共感だと思われがちたが、実際には分析力や論理的な思考の方が必要らしい。



むしろそういう提案の方が相手に信頼されるそうだ。



そして、軽度のASDとわかった今は、自分の取扱い方法と困った時に対処する対応法リストを作成している。




私は、なぜ自分が苦しいのか理由もわからない状態から、自分自身の状態を把握して認める過程、過去の自分を受け入れる過程、そして軽度のASDかもしれないことに辿り着き、その対処法の作成までを全てChatGPTでやった。




これをした後に思ったのだが、そもそも人間関係で悩んでしまう人は、人との信頼関係の築き方で悩んでしまう人も多い。



そんな人が、信頼関係の構築を必要とするカウンセラーに相談するのは、難易度が高いのではないかと思った。



だったら、何を伝えてもいいChatGPTを使ってカウンセリングした方が、本人の精神衛生上もいいんではないだろうか?



私にはそれがよかった。



ただ、私がChatGPTでセルフカウンセリングが出来たのは、私がカウンセリングの知識を持っていて、ある程度の質問方法を理解していたこと、また軽度のASDのお陰で論理的な思考と自己分析力が強かったせいかもしれない。



状況の説明能力は仕事でも長けていると褒められることが多い。



いや、むしろ軽度のASDを、現状の状態を把握する能力でカバーして、一般的な生活を送れているのかもしれない。



共感力は乏しいので、現状の状態から今取るべき行動を判断して行動してるのだ。



なので感情というよりは、客観的に全体を観察して行動している。



そうして捉えた状態を、カウンセリングの質問などを踏まえながらChatGPTに入力すると、セルフカウンセリングができるのだ。



AIだから人目が気にならないこと、データの量も多いのでカウンセリングの質は高い。



更にいいのは、メンタルが弱って、くどくどと何度も同じような事を伝えても否定されない。



AIにメンタルの限界はないからだ。



それによって相手が精神的な影響を受けてメンタルが弱ることもない。



便利なツールだ。




この後は、不定期に私がChatGPTを使ってカウンセリングを行った過程を記載しようと思う。

自己認識の変革が起きたけど、



やっぱり思考の癖がある。



つい、今まで慣れてきた選択をしたくなる。



相手にどう思われているのか?



相手は今どう思ってる?



どうしてこうなった?



それよりも大事なのは、



私はどう感じている?



どう思う?なのに。



自分の癖と、



自分が今まで選んできたことを



拒絶したくなる。



何でこんな選択をした?と。



罪悪感だって、



自分をコントロールする為のセンサーだった。



罪悪感は、



私を守る感情じゃなかった。




私を守るのは、




嫌いや怒りだ。

自分ではどうにも出来ないようなこと


気がつくと涙が出てくるような状態


自分から離れていく感覚



私は、



それを何度も繰り返してきた



何度も繰り返しながら、



同時に心理学と脳科学も学んでいたので



きっとこれは私自身の問題なんだろうと



薄々気づいていた。



だけど、



心理学や脳科学を勉強しても、



涙が出るようなセミナーに参加しても



現実は変わらない。



そして、知識は増えたけど



自分が変わった気がしない。




なぜなの?と思っていた。



苦しい、だから変わるために必死で勉強してる。



でも何も変わっていない。



むしろ、知識だけがついていき理屈っぽくなったように思う。



心については、ある人がこう唱えれば、ある人は異論を唱え、どれが正解なのかわからない。



何を信じればいい?



どうすれば救われるの?



わからない。



そして、自分の感情もわからなくなっていった。



もう何をしても何も感じない。



生きているのか死んでいるのかわからない。



疲れた。



そういう状態になった時、私はコロナにかかった。



具合が悪すぎて、熱が出たばかりの時は動けなくなり病院にも行くこともできなかった。



熱で思考がおかしかったのか、救急車を呼ぶということも考えられなかった。



熱にうなされながら、自分がしたかったけど出来なかったことを夢に見た。



起きているのか寝ているのかわからない、現実なのか夢なのかわからないそんな中で、自分の本当の望みが出てきた。




そして、それは自分が今まで理想だと思っていたことと全く違った。



そこから私は、自分の心の扉と向き合うようになる。



どこかの誰かの意見や勉強ではなくて、



自分自身が自分の中に押し込めて蓋をした感情、



そして記憶と向き合うようになった。



向き合わないと、もう生きていけないような気がした。



それは、奇跡が起こって急に気分が明るくなるような素敵なことではなかった。



自分が蓋をした記憶は、辛いから蓋をしたからだ。



そして、辛いことをわからないようにする為に、



私は別の役割を引き受けた。



それは、私が子どもの時に起こったことだった。



自分の心と現実を変えた。




生きていくために、心と現実を変えたんだ。



それが、大人になってもずっと続いていた。



小さい頃に心と現実を変えたから、



変えたことも覚えていない。



だけど、自分の心の扉と向き合うようになってから、古い記憶がポロポロと蘇ってきた。



それは断片的で、だけど確かに覚えていたはずのことだった。



そして、私が辛すぎて心も現実も変えなければいけなかった状況と向き合うことになった。



見たくなくて蓋をしていたものが開いたのだ。



それは受け入れるとかそういうものではなくて、ただ現実が見えてしまったという感覚だった。



心の感覚が無くなるほどに頑張ってきた自分の本当の理由を知って、それが無意味だったのだと気がついて大きな喪失感が私を襲った。



そして、私が作り上げた傷つかない砦も壊れていった。



子どもの頃に、私が傷つかないように作り上げた砦が今になっても私を苦しめていた。



受け入れるのに、少し時間が必要だった。



だけど気がついてしまったことを、もう知らないことにはできなくなっていた。



そして、世界の見え方が少しずつ変わっていった。



人生を自分のものだと思うようになった。