あけましておめでとうございます。早いものでもう1年。あっという間に月日は過ぎ去りますねー。
今年は年明け5日にこども病院での検診がありました。
その際、主人と行きましたがちょっとしたやりとりが。
主治医が心音を聞きながら「べんの逆流音があるね。。」と言ったときのこと、
それを聞いた主人は血相を変えて「弁の逆流?!先生、それは何か親としてやった方がいいことはありますか?!」と、聞くと「とくにないねぇ。」との返事。 雑音があるのはたまにあるから、そんなに慌てることでは
ない と医師は言っていました。
が。後々主人と話をしていると、どーも何かが噛み合わないのです。すると主人が「うんちが逆流って」
と一言。 それを聞いた私は思わず噴き出しました。
どうも主人は「(心臓)弁の逆流音」を「便の逆流音」と勘違いして聞いていたのです。
普通ありえないだろーと思いますが、何故かそう解釈したらしく・・・こんなこともあるんですねー
さて、週末は主人と子供と3人で実家に帰りました。
実家には弟の息子二人が住んでいます(7歳と4歳)
↑ちょと手ぶれ気味
息子は1歳半ながら、言葉も喋りませんし、ほとんど笑いません。もちろん歩けません。
甥っ子たちは「大人しいねぇ」と言いながら、息子に向かって「あそぼーーー!」と言ってきます
「とも君にプレゼントー!」と、仮面ライダーのおもちゃを持ってきたり、押し車を持ってきたり
「かくれんぼしよーう、おばちゃんが鬼!」といって、布団を被って息子と一緒にかくれたり。
その姿を見ていると、「障害児」として、世間から受け入れられなくなっていく その漠然とした不安を
幼い子供たちが払しょくしてくれました。
大人になっていくと、なんとなく「障害を背負った人」を見るだけで、ウロタエます。
相手とコミュニケーションが取れないことや、その姿そのものに、どう接していいのか分からなくなります。
それは、社会の中に彼らの姿が殆どないことも、理由の一つかもしれません。
幼稚園、小学校、中学校、高校大学、そして社会人。
その過程の中で、「障害を背負った人」や「難病の人」は特定の施設や病院に入り、
健常な子供たちとは離れた場所で生活していかざるを得ません。
そんな彼らと関わることのないまま生活し、物心ついたときには「なんだか変な人」「なんだか
奇妙だから関わりたくない人」として、無意識のうちに障害のある人たちを避けていくようになるのでは
ないでしょうか。
そして、自分が老いたり、病気や思いがけない事故にあって、自身が「弱者」になった時、
避けていた人たちと同じような立場にたった時、初めて様々な事に気付くのでしょう。
その視線がどれほど悲しいものか。その偏見や無関心が、もたらすものが何なのか。
他人事だと思っている間にはわからないことばかりです。
そんなことを考える今日この頃であります。
心臓病もあり、多くの人の中には連れていけませんが、
決して子供と引きこもらないように、努めていこうと思います。
さて、今朝の朝日新聞でドキュメンタリー映画の紹介文を見ました。
「普通に生きる」
http://www.motherbird.net/~ikiru/
日常生活のすべてに手助けと医療的ケアを必要とする子をもつ親の多くは、
「もし自分になにかあったら、この子はどうなるの?」と大きな不安を抱える。
この映画は、重い障がいをもった我が子と地域の中で普通に生きるために、
親の会を立ち上げ、行政を突き動かし、理想の通所施設「でら~と」を立ち上げた、
静岡県富士市・富士宮市に住む親の取り組みと、
自立への試みを、5年にわたり記録したドキュメンタリーである
(「普通に生きる」hpの紹介文より)
もし、ご興味のある方がいれば、ぜひHPのぞいてみてください。
4分ほどの短い告知映像も見れます。それを見て、思わず涙してしまいました・・・。