先日の何気なく書いた「命の価値観」を、思いのほか沢山の人達が読んでくれたみたいで、自分でもびっくりするくらいの反響でした。数百人の方々の目に留まったようで、本当にありがとうございました。

 まだ読んでいない人は、是非読んでみてください。


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 実はこのブログは日本に帰った後に、いくつかの施設や団体に出向いて今回の経験をお話しさせていただく際に使う参考資料として書いています。


 前回の反響や皆が拡散してくれたお陰で、なかなか連絡を取ることの無かった仲間からのメッセージや、知らない学生さんたちからのフォローリクエストもあったのでちょっとびっくりしてます。人気者の気分!


「私の学校でも講演会やってほしい!!」

「俺の職場にも来てほしい!!」


 などなど帰国後の予定を抑えに来るせっかちな人たちもいました。大丈夫です。俺は暇なんでいつでも。

 

 そんで今回は「ボランティア」のあり方をメインに俺が思ったことを書きました。


 その前に運動会が与えてくれた変化と行動できた環境のお話をちょこっとするね。



 まず変化についてですが内面で変わったのは、「何とかなるっしょ精神」が露骨に表れるようになりました。変な自信が湧いてくるようになりました。でも本当に世の中の大部分は何とかなります。


 例えば、初めてウガンダに行ったときトラックに乗ってた知らないおっちゃんに送ってもらったんだけど普通に考えれば怪しいじゃん?知らん人の車に乗るの怖いじゃん?


 案の定そのおっちゃんに携帯パクられてたよね。なんで気づかなかったんだろか。

 ここから一週間知らない国でケータイ無し。現代っ子の僕には大ダメージ。

正直地獄でした。いま振り返ってみればこんなの序の口。

 

 セルシオ達と待ち合わせしてるときにタンクトップの黒人に

「コーラ買わねぇか?」

って言われて、「No.」ってなんか冷たくあしらってしまったのよ。今思えばちょっと冷たかったかなってくらいドライに。ごめ。

 それでおっちゃん怒っちゃって服引っ張られて路地裏的な、いかにも怖いとこに連れてかれて、気づいたら頭に銃突きつけられてました。そんなキレる?!短気過ぎない?!って思ったけど、最初から金目当てだったんだろうね。(アジア人くそほど狙われる)


 あぁーもっと丁寧に断っとけばよかったなぁ。。。って思いました。でもその時は遂に俺もここで殺されるんだと思ったよね。そーゆー意味では生きてる実感があったけど。

 みんなさよなら!!って ありがとう!!って 死をばちくそ身近に感じてる時に現れたのがあのセルシオ先輩とその仲間たち。(総勢8人)くらいかな。圧倒的人数差でコーラのおっちゃんも成すすべ無しだったね。 

 銃を一発も打たなかったから偽物だったんかな。

 

 ほら、何とかなるっしょ。


 まぁ話し出せば命の危険なんて山ほどあったけど結果何とかなってるんよね。

死ぬかと思った思い出でもざっくり出しときます。


1.間違えて全然違う村に入ったら何本もヤリが飛んできてセルシオの左腕に刺さったとき


2.草むらでおしっこしてたら隣に像が来たとき。


3.中心街で通り魔的なやつに出くわしたとき。目の前で数人刺されてた。(僕らは全員無傷)


4.水を一口くれた子が感染症だったとき。(予防接種のお陰)


5.子供たちと川で遊んでたらカバがいたとき(世界一危険な動物らしい)

 

 正直全部死ぬかと思いました。特に感染症

のやつは死を覚悟しました。


 人間は何度か死を覚悟すると、いつからかギリギリ死なねえラインが明確になるよ。

俺がそうだった。決して命を軽視しているわけではなくて、「こんなんじゃ死なねえな」って言うのと「こりゃあやべぇぞ」の判断が的確にできるようになるってこと。


 俺は「こんなんじゃ死なねぇよ」のゾーンがやや広めになった。ヤリで刺されても、銃を突き付けられても生きてるんだから。


 次に環境について。「命の価値観」を公開したとき9割くらいの人が俺の行動力を褒めてくれました。ありがとうございます。でもみんな過大評価しすぎよ。 

天狗になっちゃうよ。

 

 実はウガンダはイギリスからそんなに遠くなくて、イギリスの支配下にある国なんだ。だから英語とスワヒリ語が公用語らしい。


 あと、俺は子供たちを救ったわけでも救いたかったわけでもありません。  

 俺は運動会がしたかったんです。

もっと言うと、暇な同級生や後輩たちをかき集めて日本国内でやりたかったです。でも、イギリスに行かないといけない。だからしゃーなしでイギリスから近くて物価安くて、広大な土地があってハイレベルな身体能力を兼ね合わせてる国を探してたところで、あのテレビを見つけたのよ。NHKのやつ。

 行動に移せた理由として

1.マジで運動会やりたかった

2.近くて交通費が安かった

3.時間があった

 この3点です。特に1強め。

例えばさ、めっちゃくちゃ飲みたいジュースがあるとするじゃん。

もう本当に喉から手が出るくらい飲みたいやつ。でもそれがアメリカにあって、アメリカにあなたが留学行く予定あったらまずそこ行こうってなるっしょ。 ちょっと違うか

 

 つまり、日本にいたら手は届きにくいけど、こっちにいれば割と手が届く範囲なのよってこと!

 俺からしてみれば、好きなアーティストのライブに地方まで飛んでく子とかのほうが、行動力えぐいと思うのよね。お金もかかるし。

 まぁそのアーティストに会いたいくらい、俺が運動会をしたかっただけ。

 その自己満のためにやってたことに対して、俺の予想をはるかに超える恩恵を貰えたからびっくりしちゃうよなって話。


 最後にボランティアのあり方について思ったことを書きますね。 これメイン。

 特にアフリカ支援について(被災地支援などは別ね)


 ボランティアって聞いて頭に思い浮かべるイメージってさ、募金とか寄付とかじゃん。俺も最初は何かを寄付することにこだわってたんよね。だから靴とか服とかおもちゃとか水とか、寄付してもらってみんなに配ったのね(全部寄付してもらったやつ)。

 みんなすごく喜んでくれるんだよ。こっちがドン引くくらい喜ぶの。でも少し経って気づいたことがあったんよ。


 今まで日常になかったものが急に身近になると人は欲深くなって、いつか人を苦しめるんじゃねーのって。ちょっとややこしいからまた例を出すね。


 例えば、あなたが原始時代にタイムスリップしたとするね。火起こししてる人にライター渡してみ。多分めっちゃ喜ぶよね。でも燃料がなくなったときにその人はがっかりするよね。だって自分で火を起こさないといけないんだもん。でもさ、その人はライターを貰う前はノーストレスで火起こししてたはずなのに、いつの間にか火起こしにストレスを感じるようになってるんだ。伝わるかな、、、

 

 つまりものを寄付するときに気を付けたほうがいいなって思うのは、寄付する商品が寄付される側の人間にとって「新し過ぎる文化」や「発達し過ぎたテクノロジー」になっていないかを考えるべきじゃねーってこと

("過ぎる"がミソね)


 「便利を知らない人は不便を知らない、便利を知ったものは不便を知る by Kaya」

 

 ウガンダで俺が、靴や服やオモチャをあげた(すべて寄付されたものだから無料)時はみんな喜ぶんだけど、俺が何もあげなかった日は少しがっかりした様子なんだよ。


ただ普通の日常に戻っただけなのに。


今までがっかりすることの無かった普通の日常にがっかりするってどゆことやねん。


それが「便利を知らない人は不便を知らない、便利を知った人は不便を知るby Kaya」


これ俺が作ったことわざ。どう?


 ライターおじさんの例えもまさにこれよね。

ライターを知らなければ、ライターがない不便さなんか知らない。ライターを知ったと同時に、ライターがない不便さを知ることになる。


ケータイ没収されたらガン萎え案件でしょ?でもケータイ持ってない時期ってあったでしょ。

持ってないのが普通だった時期。今は考えられないでしょ。。

そーゆこっと。


 もちろん寄付や支援を批判しているわけではなくて、何かを寄付する時は貰う側に便利を維持する力があるかどうか、いつか以前よりより大きなマイナスを感じることは無いだろうかを考えるべきなんだよね。


 「嬉しいだろ?お?お?」って感じで相手の事を考えずに行うボランティアは、自己満足に過ぎない。俺がそうだったから。俺がキモい自己満自己中人間だったから。おもちゃなんて電池が無くなったらテンション下がるよな。俺はそこに気がつかなかった。


 貰う側は喜ぶよそりゃ。ちょっと引いちゃうくらい喜ぶ。でも時間が経てば喜びが欲望に変わって悲しみを生む。

 喜ばせるためにやったことが、長い年月を経て悲しませる結果になることもあるっぽい


 運動会からこんなことを学べるとは思ってなかった。これが俺が思った優しいボランティアのあり方。

 今後俺はウガンダや貧しい地域に行くことはきっとないと思う。でも俺はこーやって皆に現状を伝えて、関心を持ってくれる人を増やすことはできる。俺はもうきついから嫌だ。バトンタッチ。死にたくない。


今回も長くてごめんね。読んでくれた人ありがとう。

 感想お待ちしてます。もちろん拡散してくれると嬉しいです。  

 

良いお年を👋



 


via Kaya
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