【絵日記】悩まずできる≠それがよい | 手が知っている異界の彩~絵師・緋呂 展示館~

手が知っている異界の彩~絵師・緋呂 展示館~

神・仏・天使。そして、「あなた」の光を、緋呂が描きます。陰陽併せ持つ「人間」の中に、すべては在る。
描くべきもの、進むべき道。すべては、手が知っています。




「≠」は、等号否定の記号。
AとBは等しくない、ということ。

「悩むことなしにできる」ことと、「よいこと」は、等しくない。

仏様はともかくとして(様式が壁に感じる…)、神様の絵は、私は「ヒトガタ」の絵はほとんど悩まずに描くので(衣装とか小道具とかは悩むことはあるが…)、比較的負荷の少ない行為。

龍も、慣れてきたので、だんだんそうなってきた。


でも。

それは、必ずしも、よいこととは言えない。


外部指示でヒトガタ絵を封じてた頃は、逆に、そういう感覚にならなかった。

解禁になってから、別に自主規制っていうわけでもないけど、描く気になれない時期が続いてる。


ナニカが足りない。


抽象画は、それはそれで楽しいし、描き甲斐もある。
だけど、あれはやっぱり「傍流」だ。
私の中では。

あれこそ、「何も悩むことなく終われる」最もラクなやり方。
私の中では…だよ、あくまでも。

決して、抽象画をなめてるわけではなくて、自分にとっての本筋にはなり得ない、という話。


けれども、それを言ってては、全然何もしないままで、ずーっと日々過ごしてしまうしね。



自画像は描けるから、絵日記はすすめられてやり始めて、欠かさず書いている。

短歌は、かなり前に一度、ちょっとだけ書いていた時があったけど、とある目的から、また始めることにした。
それは自発的だったけども、後になって、「なんだ、そういうことかよ」と思うようなコトがイロイロ出てきて、結局はやるハメになってたんだな、ということはわかった。


それらをやってて、思った。

新しいものを。

必ず、一日一度以上、一目に触れさせる。

それが、根底の目的だったわけね。


絵日記も短歌も、短時間でできるから、その目的にはぴったり。



自分が空洞の筒なら、その筒の向いている方向ってものを、ちゃんと定めないといけない。
何を通すか、ということと共に。

筒は、満たすものじゃなく、通すものだから。