おはようございます。
39歳で認知症と診断されたトップ営業マン
今も社員を継続、「認知症だから何もできない」と決めつけないで
※この記事は日経ビジネスオンラインに、2015年12月10日に掲載したものを転載したものです。記事中の肩書きやデータは記事公開日当時のものです。
仙台市に住む丹野智文さんは2013年、39歳のときに若年性アルツハイマー型認知症と診断された。当時、大手系列の自動車販売会社の営業職で、成績はトップクラスだった。「これでクビになるのではないか」。そんな不安が襲ったが、会社の理解のもと、事務職に移り、今も勤務を続けている。
認知症になって会社を辞めざるを得ない人がたくさんいる。会社を辞めれば生きがいがなくなってしまう。危機感を募らせる丹野さんは現在、休日を利用して、自らの経験を語る活動に力を入れる。
認知症という病の実態、仕事や会社のこと、そして現在抱える様々な思いを語ってもらった。
(聞き手は庄子育子=日経BP)
若年性アルツハイマー型認知症と診断されるまでの経緯を教えていただけますか

丹野 智文(たんの・ともふみ)氏
宮城県仙台市在住。ネッツトヨタ仙台在職中。2013年、39歳のときにアルツハイマー型認知症と診断される。診断後、会社の理解のもと、営業職から事務職に異動し、勤務を続けている。認知症の本人中心の団体「日本認知症ワーキンググループ」のメンバー。2015年5月、仙台市で、認知症患者の悩みに認知症当事者が応じる相談窓口「おれんじドア」を開設。
丹野:一度お医者さんに診てもらおうと近くの脳神経外科クリニックに行ったのは、3年前のクリスマス、2012年12月25日のことでした。実は、その3年ぐらい前から、仕事をしていて人よりも物覚えが悪いなと感じ始めていました。
そのころはフォルクスワーゲンを販売されていたんですよね。
丹野:ええ。大学卒業後、ネッツトヨタ仙台に就職して、3年目から系列のフォルクスワーゲンの販売店に異動になっていました。
トップ営業マンだったと伺っています。
丹野:そうですね。店内トップの販売成績を挙げ続け、東北で一番にもなりました。
でも、2009年ごろから記憶力が低下しているなと感じ、メモを取って仕事をするようにしていました。最初のうちは、「佐藤さんにTEL」と書いていれば、どこの佐藤さんにどんな用件で電話するのかわかっていた。けれど、次第にそれがわからなくなったんです。あれ、どこの佐藤さんだったかな、何の用事で電話しなければいけないのかな、って。
それで、メモには、仙台市青葉区のどこの佐藤さんにタイヤ交換の件で電話するなどと内容を細かく書くようにしました。そうやって仕事はできていたんですが、今度はお客さんの顔が分からなくなってきて、若い後輩に「お客さんのところに行きなさい」と指示すると、「あの方は丹野さんのお客さんですよ」ときょとんとされて……。
自分のお客さんが分からないなんておかしいなとは感じながらも、疲れているからとか、ストレスのせいだろうとずっと思っていました。
ところがある日、一緒に働いていたスタッフの顔と名前がわからなくなり、席に戻って組織図を見てこの人かなと思ってしゃべったことがあったんです。それで異変を自分でもはっきり認識して、クリニックを受診しました。
そこでは「精密検査が必要」と、専門病院の物忘れ外来を紹介されました。年明けに病院に行くと、すぐに検査入院となり、2週間後、「若年性認知症だと思うけどこの年齢で見たことがないから大学病院へ行ってくれ」と言われました。不安が募りましたが、まだ確定したわけではないと気を取り直して、大学病院に行ったところ、また1カ月入院することになりました。その間、あらゆる検査を受け、「若年性アルツハイマー型認知症に間違いありません」と診断されました。2013年4月、39歳のときです。
診断結果を社長に告げると思わぬ返答が
医師から確定診断を聞いたのはお一人で?
丹野:いや、入院中、同い年の妻と二人で話を聞きました。認知症の確定診断を受けて、私は「あ、そうなのかな、やっぱり人とは違う物忘れだったんだな」と感じました。
専門病院を退院して大学病院に入院するまで、ベッドの空きを待っていたので、少し間がありました。その間、職場に一時復帰し、「アルツハイマーかもしれない」と、会社のいろんな人に相談したんですね。すると皆、「俺も物忘れするし、人の顔忘れるよ」、「気にしなくていい、俺も変わらないから」などと口々に言うんですけども、私は明らかに皆と違うと思っていたんですよ。私の物忘れのレベルなら病院に行くはずですから。だから、全然相談にならないなと正直感じていました。
大学病院で先生からアルツハイマーと言われて、隣を見たら妻がもう泣いていたので、私は普通に話を聞いて、「あ、そうですか」と淡々と応じました。その後、一人になってからはやはり泣いてしまったんですけどね。
認知症に関する知識というのは?
丹野:どういう病気か全然わからなかったです。年配の方がかかるものというイメージしかなくて。ですから、先生にいろんなことを聞きました。この先、寝たきりになるのかとか、会社にはどのように言ったらいいのかなどと。
自分でも携帯電話を使って調べました。とにかく夜、眠れないんですよ。怖くて不安だったので。だから消灯後に布団を頭までかぶり、携帯をいじってインターネットで「30代 アルツハイマー」「若年性認知症」などと検索を繰り返しました。すると、画面に出てくるのは、2年後に寝たきりになって、10年後には死ぬといった悪い情報ばかり。まだ子供も小さいのにどうしようとひどく落ち込みました。
その後、退院されました
丹野:ええ。当時、2人の娘は中学生と小学生。まだまだ子育てにお金が必要で、住宅ローンもあるので、絶対に働かなければならないと思いました。けれど、大学病院入院前の職場に一時復帰していたときに、会社からは私のお客さんを全部後輩に渡してほしいと言われ、引き継いでいました。
営業マンがお客さんを渡すということは仕事に戻れないと思うわけじゃないですか。だから、クビになるものと覚悟し、それでも社長にとにかく頼み込んで「洗車作業でいいからぜひやらせてくださいとお願いしよう」と妻と話していたんです。
その後、妻と二人で社長の下へ行き、病気のことを伝えたら、真っ先に返ってきたのは「戻ってきなさい。体は動くんだろう? 仕事は何でもあるから」との言葉でした。思わぬ返答で、本当に嬉しかったですね。それで本社の総務・人事グループに異動になり、5月の連休明けから事務職として復職しました。
総務・人事グループでは具体的にどんなお仕事を担当されることになったのですか。
丹野:社員の出勤簿の確認や退職金の計算、ガソリン集計、確定拠出年金の処理など、普通の人と同じ業務です。私が異動するまでそれらを担当していた女性社員が妊娠されて数か月後に職場を離れることが決まっていたので、彼女の仕事をそのまま引き継いだ形です。
丹野さんがそれまで一切やって来なかった仕事ですよね
丹野:ええ。初めての仕事なので大丈夫かなと多少戸惑いもありましたが、認知症だから特別扱いされるというのは自分でもあまり好きではないので、周囲に認めてもらえるようきちんと仕事をすることを心がけました。
営業の時もノートにメモを取りながら仕事をしていたので、ここでも教えてもらった業務内容や手順をノートに書き込むことにしました。仕事のやり方をすべて書き、それを見ながら実践して、足りない部分が出てきたら、その都度、必要な情報をどんどん付け足していきました。
今では中味はかなり細かくなっていて、例えば、固定資産税の支払いに関して、必要書類のボックスの位置がわからなくなるので、「どこそこの左の3番目の棚にボックスがあって、そこから書類を取り出して…」というところから、記載しています。このノートを見れば誰でも仕事できるようになっていて、実際に同僚から「ちょっと見せて」と言われ、貸すこともあります。
新しいことをやるのは大丈夫なんですね
丹野:はい。ノートに書いてあることは今のところ何でもできます。ただ、私の場合、仕事を済ませたかどうかを忘れてしまうことがあるので、やるべきことが終わったら別のノートにチェックを入れるようにしています。そのノートには、私の業務一覧のリストがあって、終わったら○印をつけています。

職場で使っている2冊のノート。上は、やるべき仕事の業務内容と手順を自ら細かく記載したノート。下は、済ませた仕事を書きこむノートで、表紙裏には終了した業務内容に○印を記入するチェックシートを張り付けている
仕事を進める際はちゃんとできているか不安なので、何度も見直します。ですから、時間はかかりますが、ミスは少ないはずです。
自作の業務手順ノートは丁寧な文字で整然とまとめられていますね。
丹野:認知症になっても、初期のころはこういう風に書けるんですよね。今、認知症というとすぐに重度になってこういうこともできないと思われがちですが、そうじゃないんですよね。病院で告知されたころって、普通の人にちょっと困っていることがあるぐらいで、そんなにそんなにひどい状態ではありません。もちろん、認知症と診断されたからって急に働けなくなるわけでもありません。
業務をする上で会社は様々な配慮
これまで仕事で困ったことは?
丹野:わからないことや忘れてしまったことはすぐに周囲の人たちに聞くようにしているから、仕事の上で困ったことはないですね。人の顔を忘れるようになっているので、この前も上司の顔がわからなくて、「あの人偉い人だと思うけど誰?」と聞いたら、「重役だよ」と教えてもらいました。ありゃりゃと思いましたが、そんな感じです(笑)。
それから、会社にはかなり配慮してもらっていて、1日働くと脳が疲れるので、今は1時間の時短勤務と、昼食後20分から30分の仮眠を取ることが認められています。勤務時間は現在9時から16時半までです。これは大変助かっています。
9時から働き始めて11時ぐらいまでは集中できる時間帯なので大事な仕事をこなし、あとは昼食までコピーや仕分け作業などそんなに難しくない仕事をする。そして昼食後に一回寝させてもらって、脳をリフレッシュしてから、またある程度重めの仕事に取り掛かり、脳が疲れる15時ぐらいから再び簡単な仕事をする。自分の中でペースを決めて、そんなサイクルで回しています。
昼食後にはどこで仮眠を取られているのですか。
丹野:本社のもともと使っていない部屋にソファーを持ち込んで寝させてもらっています。誰も来ないですし、鍵も閉められるので自由に寝られるんですよね。初めは皆がいる居室にソファーを置いて寝ていてもいいよとの話でしたが、やっぱり人目につかない方がいいだろうと会社が配慮してくれ、寝る場所をちゃんと確保してくれました。
薬の副作用はいかがですか
丹野:飲み始めたころに比べれば良くなってきてはいますが、まだありますよ。とにかく始終頭が重いんですね。仕事をするために記憶力を保たなければいけないので、薬は結構多めに飲んでいます。すると、夜も脳が活性化していて、寝ていても夢ばかりみてしまう。それで夢の中でも一生懸命考えているからどっと疲れ、さらに夜中に何度も目を覚ます。でも、目覚めたら、自ら意図的に何も考えないようにすれば、頭を休ませることができるんですね。だから、寝て起きての繰り返し。そんな事情も会社に伝えたら、理解を示してくれ、昼寝の確保などにつながったわけです。
なるほど、そういう風に発信されるとことは非常に重要ですね。
丹野:そうだと思います。

お聞きしにくいのですが、今、給与はどうなっているのですか
丹野:一般の事務の人と何ら変わりない給与をもらっています。1時間の時短勤務分も減らされていません。以前の営業職のときは、販売成績に応じたインセンティブが結構あったので、その時と比べると給料はだいぶ減っていますが、今の給与水準をもらえることに感謝しています。
診断されてから3年近くが経過していますが、今の認知度はどんな状況ですか
丹野:最近、空間認知機能が衰えてきて、疲れていたりすると漢字を書けないんですよ。書き方がよくわからず、パソコン画面に大きく表示させて、それを見ながら、いざ書こうとしても、文字だという認識ができなくて、単に形を映すだけといった感覚です。
あとはやはり物忘れが進んでいるようにも感じます。過去の記憶ではなく直近の記憶を失いがちです。例えば自分で朝、コーヒー入れて、テーブルの上に置きますよね。それでちょっと違ったことをやって戻ってくると、このコーヒーは誰が入れたか分からない。妻が入れてくれたものと思って「ありがとう」と言うと、妻は「どういたしまして。ま、あなたが自分でいれたけどね」と笑っている。そんな生活です。
あと、コーヒーを飲んでも、飲んだ記憶がないので、「誰か飲んだ?」と妻に尋ねると、「自分で飲んだでしょ。もう一杯飲んだら」と言われたりして。そういうのはしょっちゅうあります。
仕事に変化はありましたか
丹野:人事・総務での業務内容は基本的にこれまでと同じで、何も変わっていません。ただ、自分で難しそうだなと思えば、私から「これはできない」と、はっきり言うようにしています。
この間もある資格の継続の試験があったんですが、脳が疲れてしまって、私はもう2時間の試験に耐えられないんですよ。それで上司に申し訳ないけれど試験を受けられないと断りを入れました。だからその資格はなくなりました。
また、少しずつ悪くなっていることを一緒に働いている人たちは恐らく気づいていて、これはさせない方がいいなどと気を遣ってくれている面はあると思います。多分、同じことを何度も聞いたりしているのですが皆、嫌な顔をせず、「ちゃんとやってくれているからいいよ」と、優しく接してくれていますね。

職場での勤務風景(丹野さん提供)
一方、私も自分ができることなら精一杯します。後輩の仕事を手伝うこともありますし、時には、車の売り方を営業マンに教えています。これまでに培った営業のスキルはありますので。私自身、人の顔を覚えられないからもう営業マンとしては働けないけれど、ノウハウは伝えられます。
認知症になったことを恥ずかしいと思う方が恥ずかしい
話は変わりますが、丹野さんは認知症診断後の職場復帰と前後して「認知症の人と家族の会」宮城県支部に入会されたんですよね
丹野:はい。大学病院の入院中に携帯電話で「宮城県 アルツハイマー」と検索したら、その会のことが出てきて、早速、資料を取り寄せました。私自身、どこかにすがりたいとの思いがありましたし、妻が何とか助けてもらえたり相談できたりする場所があればいいとも感じていましたので。
ただ、退院してすぐに行ってみたところ、来ている方の大半はお年寄りだったので、正直場違いかなと思いました。若くても60歳ぐらいでしたからね。この中で、当時39歳の私がうまくやっていけるわけないだろうと半ば落胆しながらも、聞かれるまま、自分の話を始めました。すると、皆真剣に聞いてくれるし、共感してくれるので、びっくりしました
最初の方で話しましたが、私がアルツハイマーの可能性が高いらしいと職場の人間に打ち明けても、「俺も物忘れがひどいからアルツハイマーかも」なんて返って来る。皆は私に落ち込む必要はないと励ますつもりでそんな風に言ってくれているのかもしれないけれど、その言葉に多少イラッとも来ていたんです。
けれど、認知症の当事者や家族にとって、私の症状だったり、飲んでいる薬は身近なものだから、よく理解してくれて私の気持ちに寄り添ってくれる。しかも、そこにいる人たちの顔は苦難に満ちあふれているわけではなく、穏やかで、笑顔。その様子を見て「自分は一人じゃない」と強く感じ、入会を決めました。
その後は同じ立場の人の輪が広がって、人生が大きく変わったと思います。
人生が変わったというのは?
丹野:明るい認知症の方々に出会えて前向きになれたんです。特に大きかったのは、私よりも何年も前に発症しているのに、とてもパワフルで元気かつ非常に明るくてやさしい認知症当事者との出会い。この方を見て、すぐに寝たきりになるなんてないんだと安心しました。他にも元気な方はたくさんいました。だから落ち込む必要などないと思い直しました。
丹野さんはこの1年ぐらい講演活動に力を入れているともお聞きしました
丹野:そうですね。頼まれるから引き受けていますが、何のためにかというと、一番は同じ悩みを持つ人の力になれれば嬉しいから。その延長戦上で、社会も少しずつ変わればいいなとは思っていますが。
講演といっても堅苦しいものではありません。「自立と尊厳」とか私はそんな難しい言葉を使えませんので(笑)。とにかく笑って講演することで見に来た人たちが、当事者でも家族でも、「あれ、こうやって笑顔で講演できるんだ」と思ってもらえるだけでもいいんじゃないかと受け止めています。
確かに、話をしていて笑顔が印象的です。
丹野:ありがとうございます。けれど講演するのに最初はためらいもありました。仕事を続けている以上、会社で自分の病気のことをオープンにしている私ですが、講演活動をすれば、もっと多くの人に自分の病気のことを知られるようになるので、家族に迷惑がかかるのはないか、子どもがいじめられたりしないかなどと考えたのです。
そこで、ある日、講演することについて自分の両親に相談してみました。すると、いつもはあまり話をしない父が「何も悪いことをしているのではないのだから、私たちのことは気にせずにやったらいいよ」と言ってきました。うちの妻や子供も、「やってみればいいじゃない」と、背中を押してくれました。その言葉で、これからは自分の病のことを包み隠さずにいこうと決めました。
よく考えると、認知症になったことを本人が恥ずかしいと思う方が恥ずかしいんですよね。好きで病気になったわけではなく、なろうと思ってなれるわけでもない病気になって、勝手に自己卑下しているわけですから。
私自身、病気のことをオープンにしてつくづく感じるのは、意外と認知症に対する偏見はないということ。認知症患者であることが分かると、たくさんの人が助けてくれるんですよね。全く偏見がないとは言わないけれど、偏見を持っている人とは付き合わなければいいだけの話(笑)。だから、病気のことを隠さない方がいいと思います。その方が気持ちも楽ですよ。
そうなんですね。
丹野:だって、庄子さんとこうやって話をすることきも、認知症のことを伝えていなければ、自分の中で、「失敗しちゃいけない」「ちゃんとしなきゃ」と構えて、精神的に辛いですし、疲れます。けれど、病を知ってもらっていれば、「失敗しても大丈夫」と思えますから。
病気をオープンにした方が、世間の認知症に対する負のイメージや誤解を払しょくできるメリットもあると考えられます
丹野:その通りです。認知症になると、徘徊するとか暴れるというイメージばかりがつきまといがちですが、最後まで穏やかに暮らせる人もたくさんいます。認知症患者にとって早期発見・早期治療と、周囲の理解・サポートは非常に重要なんですよね。
ちょっと話がそれるかもしれませんが、私がこれだけしゃべれると、「丹野さんは特別だね」と言ってくる人が多い。患者の家族や医療・介護者からそんな風に言われることも結構あります。また、私だけではなく全国のしゃべれる当事者が全国で講演活動なんかをしていると、同じように特別視されがちです。
けれど、患者の家族で介護してきた人たちとじっくり話をしていると、「そういえば昔、丹野さんと同じような症状があった。でも、そのときは病院には行ってなかったな」などと言ってくるんです。ということは、そうした患者さんは初期の段階で医療につながっていなかった。その結果、本来、治療によって遅らせられた進行を食い止められなかったとも解釈できます。
認知症初期のころって、本人が隠そうと思えば、奥さんにだってばれないように取り繕えます。でも、そのうち隠し通せなくなり、失敗が目立つようになるのですが、身近にいる家族がその現実を認めたくなくて、かつての姿を追い求めてしまうことが少なくありません。それで、例えば本人が的外れな受け答えをしようものなら、家族がすぐに怒る。すると本人は萎縮し、そうこうするうちに治療につながらないまま病が進行してしまう。そんな事例は多いです。
認知症になったなんて本人にとっても家族にとってもできれば知りたくもない事実であるのは確かです。でも、誰もがかかり得る病気である以上、できるだけ早期発見・早期治療に努めて、気持ちを切り替えて病と向き合った方が結局は幸せです。
認知症当事者が望む施策とは
認知症対策には今、政府も力を入れていて、今年1月には新たな国家戦略である「認知症施策推進総合戦略」(新オレンジプラン)を策定しました。大きな柱は、「当事者の視点重視」「若年認知症の支援強化」です。この戦略の策定を受けて、丹野さんは当事者団体の代表の一人として、官邸で安倍晋三首相と意見交換されたんですよね。
丹野:ええ。私はその際、若年でも認知症になることがあるから就労支援をとにかくお願いしたいという話を重点的にしましたが、残念ながら今に至るまでそれに関してはあまり動いている様子はありません。一方、当事者の視点は確実に重視されていると感じます。
仙台市も「認知症ケアパス」という認知症の人やその家族向けに地域でどのようなサービスを受けられるのかなどをまとめた冊子を作る際、当事者の意見を聞きたいということで、ちゃんと我々に話を聞いてくれました。今までの認知症になったらこれを見なさいという冊子は、重度になってからのことしか書いていなくて、しかもほとんど介護をする患者家族向けで、私は嫌だと思っていたんです。ですから、初期で本当に不安を持っている本人がどこにつながったらいいかという情報をもらえるようなやつにしてほしいという話をして、今、市と一緒に考えながら作っている最中です。やっぱりいいものになってきていますよ。
家族も大切なんですけど、当事者が元気にならないと家族は元気になれません。だって家族だけ元気になっても当事者が元気にならないと家族もまた本人のことで悩むわけですから。
なるほど、その延長線上の取り組みとして丹野さんは今年5月から、仙台市で認知症患者の悩みに認知症患者が応じる相談窓口「おれんじドア」の活動を始めたのですね。
丹野:ま、そうです。正確に説明すると、宮城県認知症ケアを考える会のメンバーたちといろんな話をしていたときに、「丹野さんは何でそんなに笑顔になれるの?」と聞かれ、「いや、実は私よりも先に笑顔でいた当事者との出会いがあったんです」と答えたら、「じゃあ、その取り組みを実践しよう」ということで、いつのまにか私が勝手に押し上げられたんですが(笑)。
おれんじドアの活動頻度は?
丹野:月1回です。これまで平均して1カ月当たり当事者2~3人が相談に来ています。
おれんじドアは居場所じゃなくて、次につがなる一歩のドアなんですよ。最初の一歩を踏み出してもらうためのドアだと考えているので、来てもらって前向きになってもらうとか、いろんな家族の会とか病院につなげることを活動方針にしています。
ここへ来て、私としゃべることで笑顔になって帰ってくれれば本望です。私の場合もそうでしたが、どんなに周りの人から「がんばりなさい」とか「大丈夫だよ」と言われても、自分の中で「認知症になったことないくせに何が分かるんだよ」と反発するところがあるんですよね。けれど、当事者からのメッセージには耳を傾けますし、心をときほぐしてくれます。
この間も、50代後半の女性の認知症当事者の人が旦那さんに連れられてやってきました。旦那さんは奥さんについて「この人、もうしゃべれませんから」と言って私にパスしてきたんです。でも、私が話していたら奥さんは普通にしゃべってきた。これまで、なぜ話せずにいたかというと、旦那さんがしゃべれないと決めつけて、当事者も何回も言われているうちに、自分でしゃべれないものとおそらく思い込んでしまったんですね。これは不幸なことですよね。こうした例を改善できればと思っています。
国の制度や施策に関してもっとこういうのがあったらいいなというのはありますか
丹野:幸い、私は働き続けていますが、周りには認知症になって会社を辞めざるを得ない人がたくさんいます。でも、私のように勤務時間を短縮してもらったり、手助けがあれば働けると思うのです。何とか認知症になっても、できるだけ長く働き続けられる支援をお願いしたいです。
例えば、障害者雇用の助成制度に関して、障害者を雇うと会社側にお金が入って来ますが、途中で障害者になった人がいても、会社にお金は入ってこない。それもおかしい話ですよね。また、認知症の人が働くための支援やアドバイスを会社側に行う、専門のジョブコーチの派遣システムをしっかり構築してもらいたいです。
他にも、認知症患者がちょっと出かけたいときに一緒にサポートしてくれる人がいれば助かります。買い物を例にしますね。アイス一つを買うのに、これがいいかなあれがいいかなと店の中で悩む楽しみってありますよね。でも認知症になると、一人で買い物するのは行き帰りの道のりが分からなかったり、小銭の計算ができなかったりで、だんだん難しくなります。でも、そんなとき付き添ってくれる人がいて、一緒に店まで行って、商品探しを手伝ってもらってお金を払うときサポートしてくれれば助かりますよね。そんな仕組みです。
丹野さんもとてもパワフルですね。
丹野:先のことを考えれば不安がないと言えばうそになります。やっぱり2年後、3年後のことを考えると怖いですよ、さすがに。けれど、これからのことは考えないようにしているんです。とにかく今、一日一日を楽しく過ごすことだけを考えていて、それで笑顔で過ごすことで進行が遅くなると信じています。
最後に、認知症は誰でもなる可能性があります。若い人だって私がそうであったように、なってしまうんですね。でも、大丈夫、仕事はできます。周囲の方も、認知症だから何もできないと決めつけないでいただきたいと思います。