5月父はバイクで事故をしてしまいました。ドクターヘリで運ばれて、大学病院へ。6時間にわたる手術を終え、父に会うことが出来ましたが、色々なチューブにつながれて、痛々しかったです。

父と母は、岐阜の田舎で暮らしています。二人とも元気なので、私は他県で子供2人と暮らしていますが「介護」とかそういう事は全く考えたことがなかったです。いつか来るだろうと思いながら、まだまだ他人事だと・・・。

父は開放骨折で、何とか繋いでもらいました。でも結局、背中の筋肉を足に移植したりと手を尽くして頂きましたが、状態は良くなく、切断を余儀なくされました。

父の趣味はバイクです。ドライブが大好きで、事故の日も自宅から1時間以上遠くの山にドライブに行っていました。他にはマレット、釣り・・・、とにかくアクティブです。

切断を決める日、父は「足を切ってまで生きている意味があるのか?」と先生に言ったそうです。アクティブな父です。また見た目を結構気にする父です。そんな発言は予想していました。でも、このままだと命も危ないので、切る決断をしてほしいと思いました。何とか納得してもらえたので切断になりました。

話しは飛びますが、ちょっと物忘れの多い父でしたが、入院してお見舞いに行くと、物忘れが治っていて、頭を良い風に売ったのではないかと思ったほど。会話弾みました!

でも切断してから、今日まで、どんどん認知症が悪化してしまっています。

切断してからも、移植のために切った背中からの出血がひどく、出血が多く心不全になったり、たこつぼ心筋症になったり、心筋梗塞が分かりカテーテルオペしたり、大変でした。

何より、入院してから食事をとらなくて、食べれるようになってもおかゆ1口、2口で、見る見るうちにやせ細ってしまったんです。

結構筋肉質で、アクティブだから鍛えていたのに、ごっそり筋肉が落ちてしまって、がりがりになってしまいました。

担当の先生は、医学的にできることはすべてやってくれるという感じで、どうにか栄養状態をあげるために取り組んでくれて、すごくありがたかったです。今でも感謝しています。

一時期、このまま食べない状況が続いたら「週間単位」と言われて、病院で泣きました。20代の時に、就職して稼ぐことができるようになって、父と母を伊豆旅行に連れて行ったことがあります。たったそれだけ。1度しかまともな親孝行をしていないのに、親孝行する前に父が死んでしまうなんてと、本当につらかったです。

でも、結局食べなかったけど命はつながって今に至ります。

栄養不良、心疾患ありで回復期の転院先が全く見つからず、長い事そのまま大学病院でお世話になっていました。しかし、やっと9月に受け入れ先が決まり、しっかりとかなり尽力してくれた先生にお礼を伝えられぬまま転院しました。

転院前から認知症がひどくて、母に何十回も電話をかけるようになりました。

それまでは携帯があってもかけれないほどの状態だったので、私としては嬉しい復活でしたが、母は少し参っています。

転院してからは、私に電話がかかってくるようになりました。転院のときに私の車で移動したからかな??

今は1日、2回~多い時では10回くらいかかってきます。

全く自分がどこにいるかわかっていないから聞いてくるパターン、なぜかきれいな転院先なので、私がツアーを申し込んで旅行しているという設定で、いつまで宿泊するのか?お金は大丈夫か?というパターンがあります(笑)

そんな電話大変かと思う人もいるかもしれませんが、私は父とはあんまり会話がなかったんです。

父のことは小さいころから好きだし、大事だけど、あまり積極的に話すタイプでもないので。

なので、電話がかかってくるという事でちょっと嬉しいんです。

同じころを聞かれても、毎回同じ説明でも、まだ嬉しいという感情があるんです。

父が退院したら岐阜の田舎で、母と二人というわけにはいかず、今私の生活の中に父と母を迎える方法について模索しています。