園子温
『ANTIPORNO アンチポルノ』
ポルノというジャンルに男性の欲望が反映されているとすれば、その視線の対象となった女性は否応なしに男性の期待するイメージに沿って造型される。
「ロマン」と「ポルノ」の二つの言葉の合体によって創作された「ロマンポルノ」というジャンルもまた、いかにピンク映画との差別化を図ろうとも男性を中心的な観客として想定していた事からも分かる通り、男性の視線による女性の収奪が起きていた。
にっかつロマンポルノが、80分前後の上映時間に10分に1回の濡れ場を入れるという条件を満たせば、物語も含めて多くの自由を作り手に保証していた事はまぎれもない事実であり、数々の実験的な試みによって映画の可能性を拡大させた事もまた重要な成果だと言える。
男性の視線によって収奪される女性もまた、単に収奪される立場に甘んじていた訳ではなく、自らの欲望を肯定する事によって男性が期待する正しい女性像を打破する事に貢献した。
しかし、作家主義にしろ自律的な女性像にしろ、それらをもってロマンポルノが男性の視線によって女性を収奪していなかったと擁護する事はできない。
ロマンポルノというジャンルが既に男性の欲望を反映している以上、女性の観客からも高い評価を受けたとか、後に芸術性が再評価されたと擁護しようとも、そこでは男性によって注がれた視線の優位性が否定できない事実として存在した。
いくらロマンポルノが映画に革新的なスタイルを導入したと評価されようとも、園子温は決して同意しなかっただろう。
そこで彼は男性の視線に収奪される女性の立場を逆転するべく、男性の欲望が反映されたポルノを否定(ANTIPORNO アンチポルノ)した。
それはロマンポルノ・リブート・プロジェクトによって製作された作品にとって、自己否定とも言うべき事態を到来させてしまった。
その結果完成した作品は、もはや「ロマン」でも「ポルノ」でもなく、男性の視線に収奪される女性からの異議申し立てとなり、女性自身が男性の期待する女性像として造型される事を拒否する事の表明になっていた。
それを表明する為に、作品にはメタ・フィクションの構造が採用されており、この幾層にも入れ子状になった構造が、現在の状況を裏切る次の状況を果てしなく生み出し続けていた。
冨手麻妙が演じた小説家の京子は、筒井真理子が演じたマネージャーの典子に対して理不尽な要求を繰り返す事で、それがサディスティックな状況を物語に生み出していた。
まるで典子を奴隷のように扱う京子の主張とは、「この国の女は誰一人として自由を使いこなせていない」という言葉に象徴されていたように、女性としての自由を手に入れる事にあった。
原色の壁に囲まれた彼女の部屋には女性しか登場せず、その世界において彼女は圧倒的な中心として振る舞っていた。
しかし、ひとたびカットの声が掛かれば、その原色の壁に囲まれた部屋が映画のセットだった事に気付かされるのであり、そこで展開されていた行為が映画の撮影の為に行われた演技だった事が暴露されるのだ。
その物語の出演者が女性しか存在しなかったのに対して、撮影スタッフには男性しか存在しておらず、女性が自由を手に入れるという物語が、監督を含めた男性のみのスタッフによって撮影されていた。
『ANTIPORNO アンチポルノ』を監督した園子温もまた男性である事から、男性が女性の自由について物語る事の矛盾を彼自身も自覚していたはずだ。
だからこそ撮影スタッフが男性に限定されている光景に、観客の視線のみならずスタッフも含めた男性の視線に収奪される女性の状況を反映させたのだろう。
男性監督によるカットの声が掛かると、それまで支配者として振る舞っていた冨手麻妙と奴隷として扱われていた筒井真理子は、新人女優とベテラン女優の関係へと置き換わり、その立場が完全に逆転してしまった。
小説家としてマネージャーをビンタしていた冨手は、ベテラン女優である筒井から演技を酷評され、逆にビンタされる立場へと転換するのだ。
演技の下手な新人女優は、男性スタッフから罵倒されるのみならず、まるで男性の立場を代弁するかのようなベテラン女優から執拗な叱責まで受けた。
正しい女性像を通して女性を収奪するのは男性に限らず、男性によって作り上げられたシステムに生きる女性も同様に収奪に参加するのであり、それは単に男性と女性の間に横たわる性別に基づいた対立とは言えない。
しかし、この作品にはメタ・フィクションの構造が採用されている為に、現在の状況は次の状況へと即座に移行してゆく。
次の状況へと移行する方法は、映画の撮影であったり、夢であったり、過去に撮影されたビデオであったり、オーディションの光景だったりする。
それらの方法を用いる事によって、あらゆる時間に物語は設定され、それが過去なのか現在なのか未来なのかも分からない状況を生み出すだけでなく、それが創作されたフィクションなのか現実なのか分からない状況となって到来していた。
映画では冨手麻妙が小説家である京子役を演じるが、その冨手麻妙もまた現実の冨手麻妙ではなく『ANTIPORNO 』で演じられた冨手麻妙であり、その演じられた冨手麻妙はオーディションを受けて京子役を演じ、彼女に演じられた京子は小説を書き、その小説を京子役の冨手麻妙が演じる。
このようにメタ構造が際限なく反復された作品では、どこまで続いても終わりが見えず、現実の冨手麻妙に辿り着く事も、彼女によって演じられた京子に辿り着く事もなく、何かを掴み掛けたと思った瞬間、その手からスルりと滑り落ち、出口のない隘路で彷徨い続けるしかなかった。
冨手麻妙によって演じられた京子は、処女であると同時に売女でもあり、彼女は処女でありながら売女となる事が女性にとっての自由を獲得する手段だと信じ、それを実行する。
「この国の表現の自由なんて使えないやつは糞の中に捨てちまえ」と言い放つ彼女は、処女のまま売女となる事で、自らもまた糞の中へと身を投じ、糞の中から自由を掴もうとする。
その為に彼女は映画のオーディションを受け、SEXシーンのあるロマンポルノに出演を果たす事で、性に対して厳格な両親のくびきから解放され、自由を手に入れようとするのだ。
もはや冨手麻妙は京子なのか、京子を演じる冨手麻妙なのか、フィクションの冨手麻妙を演じる現実の冨手麻妙なのか分からなくなり、その全てが溶け合ったかのような「女性性」へと到達する。
その「女性性」とは、男性がロマンポルノに期待する正しい女性像ではなく、ましてや欲望の対象であるポルノですらなく、糞の中へと身を投じる事によって獲得された女性の自由に他ならない。
しかし、この作品において彼女が自由を獲得できたのかは定かではなく、むしろ「出口は?」と叫び続ける彼女の姿からは、自由を獲得できずに隘路で彷徨い続けるしかない女性たちの存在をイメージさせた。
園子温は男性が女性の自由について物語る事の矛盾を自覚しつつ、その矛盾を乗り越える手段として女性を収奪する男性の視線を映画の撮影風景を通じて露悪的に示す事で、男性の視線が女性に対して暴力として機能する事をロマンポルノという矛盾する形式において実践した。
出口のないメタ・フィクションの構造の中で、出口を探して格闘する冨手麻妙は、筒井真理子も含めてロマンポルノというジャンルが要求する制約を引き受けながら、その要求をロマンでもポルノでもない方法によって転倒させた。
それがいささか使い古された現代アートの焼き直しのように見えてしまう点に、園子温の映画に纏わり付く自意識が垣間見えてしまう。
決して男性が女性の自由について語ってはならないという訳ではなく、男性に対置された女性という一方の全体を取り上げながら、結局は自己愛の表明へと問題を矮小化させている気がしてならなかった。
もはや女性が大上段に女性の自由を要求する事はないのかもしれず、それは何も女性が自由を手に入れたという事では決してなく、むしろ不自由な状態に据え置かれている事に対する絶望の為ではないか?
ファーストショットに国会議事堂が配置された作品には、安保法案に反対する群衆が国会議事堂前に集合する光景をニュース映像として使用していたが、もはやポルノがいかなる政治性も持たなくなってしまった時代において、使い古された現代アートのように、ロマンもポルノも使い古されてしまったかに見える。
その表現や政治性に可能性を感じないのは、敢えてアンチを標榜する事や、敢えて形式を破壊する行為に、もはや誰も批評性を感じ取っていないからであり、そもそも作品を批評する事が誰にとっても必要とされていないからだ。
個別の作品が表現にしろ政治にしろ何ら影響を果たす事も、それを期待される事もなくなった時代において、形式の破壊に見えた行為が結局は形式に取り込まれ、形式として消費される運命からは逃れられない。
作品では冨手麻妙によって「自由を謳歌する振り」が批判されていたが、形式を破壊する振りもまた同様に現状維持に加担する結果しか生まないだろう。
使い古された形式をさも新しいかのような振りをするよりも、どっぷりと形式に浸る事でメッセージから遠ざかり続ける事の方が、よほど映画に対して賢明な態度に思えた。