おろらく寿命を減らす程、ぼろぼろになるまで戦う弟子の格闘家。
15年も前に荼毘にふされ、身内の記憶にかすかに生きる父。
死というものを哲学する最中、
暇ではなく、何の打算もなく、不思議なことだが、元弟子と知人の娘との「仲人」のまねごとをしている。
我が輩自身、クラブ長ならともかく、元弟子に対して
どうしてこれほど熱心に伴侶候補を紹介しているのかわからない。
打算に満ち、損得勘定があふれている世の中で、
そういうものとまったく無縁な
あくまで善意でさわやかに、
人の幸せを観じてみたいという衝動が
我が輩を駆り立てているのかも知れない。
他方、深層心理の中で
「我が輩は他者とは違うんだ!」
という
ーうぬぼれが行為として表徴されているのかも知れない、
と思うと
いささか我が身を恥じることがままある。
うまく行けばよいのだが、こればかりは本人達の相性。
死のはじまりは生だが、
それはひとつの男とひとつの女とが交わり合って可能となる。
儒教の教典には、「婚姻は生のはじまり」とある。
またもや新しい命が誕生してくれれば幸せな気分にひたれる。
他方、あるトラブルメーカーと絶縁しようと心に決めた。
2~3年ほど前も、恥知らずな者がいたが、
我欲に暴走する輩を見る都度、
「どうしてそういうことができるのか?」
と不思議の国のアリスになる。
そしてそれが発覚すると自分の都合の良いことばかりを
喧嘩にまけた犬が遠吠えをするかのように
わめき散らす醜態を見る都度
(面と向かっては言えないようである。事情を何も知らない第三者に対してのみ。
主としてほぼ精神を病んでいるとしか思えないメールのみ)、
人間不信が高まることがある。
毎年毎年、周期的にもめごとを起こすのだから、うんざりを通り越している。
和を乱す輩の共通する点は
ー欲深い性質
である。
我が輩ははっきり断言できる。
「欲深き者は信用ならん!」
と。
美辞麗句を並べるのは、口笛を吹くのと同様、簡単である。
孔子のいうとおり、巧言令色少なし仁。
言葉に誠がなく、行動にスジがない。
それを知りつつも
何度も何度も許して来たわけだが、
もう終わりにしたいのが偽らざる心境である。
だがしかし、
そういう輩だけが悪いのか?
と哲学しなければならない我が身がいささか滑稽でもある。
世の中には、
「自分は絶対正しい! あいつは絶対間違っている!」
と主張する者が大部分だが、
常に、
適度に醒めている我が輩の思考
は、自己だけに都合の良い感情的主観を排除するようである。
「人の性は善であり、誰でも努力すれば、幸せになれる!」
と信じつつも、
同じ者による悪行を目撃する都度、
やはりすべての人間がそうではないことを実感せざるをえない。
「人間の善を信じるべきではないのか・・・」
と10年も悩んだ末に、
「JTA七戒(除名等基準)」
等のJTA法規を整備しているのも(www.jita.jp のトップの「トップの方針」を見よ)、
あまり人の悪行を見たくはないということなのかも知れない。
我が輩が携帯電話をもたないのは、
性悪な人々との交際交流を断絶するためなのだが(頼み事が多いというのもあるけどね)、
今後も変化はなさそうである。
他方、和田春樹先生等の学術書を読み、自己の論文を執筆している学問の最中や、
稚拙な小説を書いている時、
蹴武の型の創作や全日本大会ポスターおよび
東日本震災孤児奨学金チャリテーTシャツ
のデザイン等の建設的なJTA業務を思考しているときは、
自己の世界にどっぷりつかれるためか心地よい。
よくよく考えてみると、人生は時間が限られており、クオリティーの高い時期はさほど長くはない。
脳障害をおこし、寝たきりになるという低クオリティー状態で生きながらえることをのぞんではいない。
硬派は尊厳死をのぞむのである。
現在、我が輩の脳は、
若い頃、高校・大学受験を経験したことがないためか(本当の話。塾や予備校に行ったこともない)、
嫌な奴とはつきあわない!
嫌いな仕事は引き受けない!
嫌いなことは一切やらない!
の「スリー嫌(けん)」を徹底しているためか
まったく疲れておらず、
「積極的に活動したい!」
とうずいているのが、よ~くわかる。
これから岡本太郎のように
「爆発させるぞ!」
とやるき満々。
だから目が澄んで輝いており(一度、よ~く見てな)、
常に女性につぶやかれる「肌のつやが良い」のだ。
ところが、時には教え、時には恩を施し、時には励まし、時には寛容に接してきた者の懲りない悪行を知る都度、
脳が思考を停止し、活動することに対し拒否反応を示すのがよ~くわかる。
可能ならば、そういう状況を無くしたいのだ。
けれども、おそらくそうはならないだろう。
覚悟はしているが、可能な限り減らしたいのだ。
限られた人生を
よりクオリティーを高めて生きるため
あれこれ試行錯誤しながらも、
きっと常に哲学するに相違ない。
「人生とは果たしてなんぞや?」
と。
今このメッセージを書き終える際、
死にかけてのたうちまわっていた蝉が
最後の力をふりしぼり
コンクリートのベランダにはいつくばって
大声で鳴き、
そして息絶えた。
我が輩も、
脳が思考を辞め、
心臓がとまる直前まで
「あの蝉のように人生を完全燃焼したい!」
と観じた。