革命左派の正式な名称は、日本共産党神奈川県委員会と言います。要するに共産党なのです。今の日本共産党は、その当時、民青(簡単に説明すると、日本共産党の青年部)を使って、革命左派を含む、新左翼と対決姿勢でしたので、同じ思想でも対立していたグループだと言えます。

「毛沢東思想で武装した革命党建設」を目標とし、「反米愛国」を主軸にして、労働者運動を勝ち取ろうというのが当時の目標で、構成員を多く出している東京水産大学と横浜国立大学が拠点でした。

結成当初は主に京浜工業地帯の工場労働者を基盤とした組織でしたが、工場労働者はそんなに暇ではなく、先程書いた大学の学生やそのOBしか残らなかったのでこじんまりしたグループでした。

神奈川以外にも東海地方にも拠点があったので、山岳ベース事件では、東海地方のグループの多くが粛清に遭ったりしております。結局、割を食らうのは末端の組織で、結果的には、赤軍派>革命左派>革命左派の東海支部みたいな構造になりました。それはさておき、その4でも書いた通り、初めは河北三男が最高指導者でしたが、彼自身体調に不安があり(後に若くして死去する)、代わって川島豪が最高指導者に就きます。その頃から、過激なグループになっていきます。

グループ内では、男女の恋愛がイコール結婚であり、女性は男性に尽くすべきという川島の女性蔑視の考え方がありました。また、川島をはじめとした幹部が、男女をお見合いの斡旋をさせ、カップリングして行きました。また、川島ら、何人かの男性メンバーは女性に暴行を振ったりもしており、これが川島逮捕後にも一部残ってしまい、赤軍派の森が、革命左派の男性は女性を支配しているとして、総括の対象になった革命左派のメンバーもいました。

川島や幹部連中が逮捕されると、永田・坂口・川島夫人・石井女史・寺岡・柴野ら中堅メンバーで、新たなリーダーを決める事になります。そして、みんな面倒なので、会報誌の編集長だった永田をリーダーに任命します。永田なら言う事を何でも聞いてくれそうだし、仮にガサ入りされても責任者として祭り建てればいいという考えだったのですが、当の永田は、川島に性的暴行をされた事から川島のいない間に組織を改革しようと本気になってしまいます。

それにより、川島夫人や石井女史といった、永田よりも格上の人達を東海地方の本拠地である名古屋、また関西にも本拠地を作るという名目で大阪に左遷させてしまいます。また、自分の妹分である、 金子みちよ(吉野雅邦の妻)・大槻節子・杉崎ミサ子(寺岡の妻)らを活動の中心に巻き込み自分の発言建を磐石なものにするのでした。

もちろん、川島は、自分の妻と石井女史(爆弾魔で有名な女性です。)が飛ばされるのを知ると、永田には任せておけないと思い、坂口や柴野に命じて、自分の奪還作戦を伝えます。祖の奪還作戦というのが、拳銃で刑務所から奪還するという稚拙な作戦でしたが、坂口も柴野もやる気満々でした、特に柴野は指名手配犯として関東圏にチラシがばら撒かれる位でしたので、自由に動くことが出来ずうっぷんもあったのだと思います。拳銃を手に入れて、川島と共に派手な事をしたかったのでしょう。

そんな柴野を匿っていたのは大槻節子という可憐な女性でした。彼女は、横浜国立大学の3人娘(金子・杉崎)の一人でした。永田からの信頼も厚く、永田がリーダーになってから頭角を現します。彼女には渡辺正則という同じ大学の彼氏がいて、彼もまた、彼女と同じ位活躍したいと願います。そして、ある日、上赤塚交番を襲って、拳銃を奪い、その拳銃で、川島豪を奪還するという作戦を永田と坂口らから命じられます。渡辺はこれに成功すれば一気に幹部の仲間入りですし、今までと違って地味な裏方から幹部候補の大槻と共に組織での派手な活動が出来るようになります。

そして、1970年12月18日、柴野と渡辺、もう一人高校生の男性が加わり、上赤塚交番に襲撃しに行くのでした。

 

次回は、上赤塚交番襲撃事件と、柴野の死により、革命左派が、当時の新左翼から一目置かれて、当時の最大組織であった赤軍派と接近するまで事を書きたいと思います。

 

赤軍派が一番の勢力を持つグループであれば、革命左派は少数とはいえ一番名前を上げたグループでした。

もともと、革命左派は毛沢東思想を中心に日本を共産主義の国に革命しようと考えていたグループです。リーダーは河北三男と川島豪で、河北は元々体調が悪かったせいか(数年後に死亡)活動から離脱します(持病を持つ永田を誘って田舎暮らしをすすめていました)。川島がリーダーとなりますが、過激な活動からすぐに逮捕され、当時幹部だった、石井功子(川島と捕まった川島の腹心・石井勝の妻)、川島陽子(川島の妻)、坂口弘(のちに永田洋子の夫)、柴野春彦(のちに名前を上げる事になる事件で死亡)、寺岡恒一(山岳ベース事件で森により粛清させられる)らがリーダーをやりたくない為に(リーダーになると公安にマークされたからです。)、革命左派の機関紙の編集長的立場であった永田洋子が勤めることになります。

永田は川島に強姦されたことがあります。また、川島が逮捕された後に川島の腹心の坂口と結婚します(事実婚)。この当時、永田は革命左派ではそれ程の地位はなく、幹部の妻であった、川島陽子・石井功子に追いつく為に川島や坂口と肉体関係になったのだと思います。
その後、リーダーになると、川島と石井を名古屋や大阪に左遷させて、自分の妹分である、 金子みちよ(吉野雅邦の妻)・大槻節子・杉崎ミサ子(寺岡の妻)らを活動の中心に巻き込み自分の発言権を磐石なものにします。

それと前後して、川島は獄中から自らの奪還作戦をさせる為に永田や坂口、柴野に命令を下します。(これは東京水産大学出身の川島と坂口が、手旗信号を手話でするという巧みな方法でした。)
柴野を奪還作戦のリーダーとして、上赤塚交番を襲撃させ、警官から銃を奪い川島がいる刑務所を襲うという稚拙なものでした。柴野はこの作戦で、警官に発砲され即死。このことが、赤軍派はじめ多くの新左翼グループから、「赤軍派は根性がある」と一目置かれたのでした。

柴野の死や川島陽子・石井功子の左遷で、幹部が永田・坂口・寺岡だけになり、永田の集団に作り変えられました。それを危惧して、川島は獄中から奪還作戦の指示や永田に対しての批判的立場を表明してきました。流石の永田も川島の影響力には敵わず、真岡市の銃砲店を強盗させ、その武器で川島を奪還しようという作戦に出ました。

作戦は成功しましたが、相次いで実行犯が逮捕され、全国に指名手配された永田と坂口、それと残りの実行犯は、群馬、新潟、北海道に逃走し潜伏しました。

革命左派は小さな集団でしたので、永田らは逃走中の資金繰りやカンパなどうまくいかず困窮してしまいました。そんな時に手を差し伸べたのがM作戦(銀行強盗)をして経済的に余裕が有る森がリーダーになったばかりの赤軍派でした。赤軍派としては革命左派の鉄砲と、M作戦で、坂東隊以外の部隊の殆どが逮捕され、兵隊と呼べる人材が枯渇していました。どうにか永田らを懐柔して、自分達の指揮下に入れたいと考えておりました。
革命左派としても武器があり人もいるけど、資金力が無いので活動に支障をきたしているので赤軍派のネームバリューと資金、全国に多く持つアジトは魅力的に感じました。

先程も書きましたが、革命左派は毛沢東思想であり、対して赤軍派といえば、キューバ革命で有名なチェ・ゲバラの思想をベースにした思想でした。

とても思想的に相容れるないので、まずは軍事演習をして、革命をする軍が提携を結ぶというところで、お互いの利害が一致したのでした。

今までは、おでんちゃんブログと同じ内容でしたが、次回は、革命左派についてもう少し詳しく書いてみたいと思います。

東京戦争や安田講堂での敗北で、民衆の支持を失った学生運動で、一番の勢力を誇ったのが赤軍派でした。先鋭化したとはいえ、東大京大クラスの頭脳と行動力を持つ人達を全国から集め、1969年の11月に大菩薩峠のふくちゃん荘で軍事演習を行ないます。

この軍事演習は、首相官邸を襲い、東京戦争や安田講堂で逮捕された仲間を奪還させる作戦の演習でしたが、スパイ等の暗躍で、読売新聞はじめ、山梨県警や警視庁にもばれており、赤軍派の主要メンバー53名が一斉検挙されます。これにより、学生運動で一番の勢力を誇る赤軍派は壊滅的ダメージを受けます。

日大での闘争で逃げ出していた森恒夫、その腹心であった坂東國男らが赤軍派の中心メンバーになります。また、のちに山岳ベース事件で死亡する遠山美枝子さんの旦那さんはこの時に逮捕されてました。

森恒夫と対立した重信房子は1971年に日本を出国して日本赤軍として海外に拠点を作ります。遠山美枝子さんはこの重信氏と仲が良く、後に森氏にスパイ容疑をかけられて粛清されます。(多くの書物やネットでは、永田洋子が遠山さんの美貌に嫉妬して殺害したと書かれていますが、私はそういう意見には否定的です。永田洋子=極悪人=不細工のレッテル張りはどうかと思います。粛清されたメンバーにはそれぞれ、森・永田による考えがあります。嫉妬であればまず植垣氏が粛清されるべき対象だと思います。なぜならこの人はかなりのイケメンだからです。)また、別のグループはよど号をハイジャックして海外に拠点をつくりました。

国内にいる赤軍派はM作戦(強盗して資金を獲得する作戦)の森恒夫がリーダーとなり、海外の2つグループと、逮捕されたグループと更に別れて、森の意向に従わない人は、組織再編という名目で追放されたりします。

民衆や一般学生まで取り込んでいた学生運動から
         ↓
東京(大阪)戦争・東大安田講堂
         ↓ 
       大菩薩峠事件
         ↓
       海外派の分派
         ↓
        組織再編

と、次第に赤軍派は森が考える組織に変わって行くのでした。

次回は、革命左派(永田洋子がいるグループ)が赤軍派が再編される時に何をしていて、なぜ、思想も組織形態も違うグループが共闘から連合、合併して連合赤軍に至ったかを書きたいと思います。

※ 若干時系列等間違っている部分もございます。その都度直して行きたいと思います。

今では考えられませんが、当時の日本は貧しかったそうです。
労働者は働いてもそれなりの賃金を得ることも出来ず、企業だけの利益が膨れ上がっておりました。
また、戦後まもないので、米軍の駐在や反米意識が高く、資本主義経済も発展途上でしたので、なかには、ソビエトや中国をはじめとする共産主義・社会主義にしたほうが良いと考える人達も多くいました。

1960年代の日米安保条約締結で、日本が米国陣営として、「戦争に巻き込まれるのでは?」という危機感と、「親や子を殺された米軍と共に戦うのか?」という感情があり、大きな運動となりました。これが日米安保闘争と呼ばれました。

(そう考えますと、今の集団的自衛権の反対運動がマスコミと一部極左が騒いでいるだけなので、学生や大衆の支持を得られているとはおもえませんね。この反対運動、かなり還暦を超えた人が多いので学生運動の残党が、老後の趣味でやっているようにしか見えないのはあたしだけでしょうか?)

この時に樺美智子(かんばみちこ)さんが機動隊ともみ合いに成り、死亡しました。彼女を殉教者として、運動は盛り上がりましたが、次第に考え方が違う人達に別れて行きます。

(なんか、政権獲った後の民主党の権力闘争に似てますね。そもそも樺美智子さんが、強い意志をもって学生運動に参加したのか?ただの当時のファッションで参加したのか?機動隊に殺されたのか?
学生運動の騒動に巻き込まれて圧死したのかは?不明です。ただ、学生側は、権力に殺されたとかがけました。これが後にあさま山荘での機動隊の銃器使用の不可につながっていきます。)

60年代半ばになると慶應大学や早稲田大学でベトナム戦争反対の機運が高まります。当時の大学生は相当なエリートで、進学率も低かったので、「これからの世の中は我々が作る」という使命感が高かったらしいです。(もちろんFランク大学なんて存在しませんでした。)
また、日本大学で不明瞭な会計や学費の値上げが有ったりし、私立大学は学費を増やしたい為に大学の水準を下げ大衆化を目指したので、エリート意識を持つ学生達が大学を運営・自治しようという流が、全国に広がりました。

このころ、後に連合赤軍に参加する。植垣康博氏は、新宿で学生の集会に参加して機動隊と衝突します。(1968年新宿騒乱事件=東京戦争)アナゴさんやドラゴンボールのセルで有名な声優、若本規夫さんは、機動隊として最前線で学生達と対峙してたそうです。また、植垣氏の1つ上の先輩(弘前大学)で、ガンダムの漫画家アニメーターとして有名な安彦良和さんがいます。安彦氏は、植垣氏が東京戦争に参加する前に警察に捕まってしまったので、これがなければ、若本さんと対峙してたかもしれませんし、植垣氏と共に連合赤軍事件に巻き込まれていたかもしれません。(弘前大学からはもう一人青砥氏が事件に巻き込まれています。この三人が弘前大学での学生運動の中心的存在だったそうです。)

この他にも成田空港や羽田空港、米軍基地で、学生と機動隊の衝突や爆弾事件が相次ぎますが、機動隊の活躍や公安の地道な努力により、次第に学生運動は沈静化していきます。決定的になったのが1969年1月の東京大学安田講堂事件の鎮圧で、機動隊には敵わないと、活動の中心となっていた大学生も大半が運動から離脱しはじめました。(大半がファッション的感覚=男性なら女性にモテる。女性なら男性からカッコいいと思われる。という感覚)

学生運動を真面目にやっていた活動家達は、もはや、大衆に向けてのアピールや話し合いやデモ活動をしても機動隊が出てきて鎮静化されるので、武力による革命しかないと次第に先鋭化していきます。
そして、話し合いや穏便に解決しようとする者、考え方の違う人達を排除し、ゲリラ・テロリスト化していくのです。

かなり端折って書きましたが、大衆的だった学生運動が、次第に世間から放れていく様子が感じられます。どんどん、ふるいにかけられて、武力集団だけに選別されていくのですが、東大安田講堂事件がその大きなきっかけになりました。次回は、更にその武力集団がふるいにかけられる、事件から書きたいと思います。
 

連合赤軍事件を知ったのは、311のおよそ1ヶ月前である2011年2月上旬の事でした。

「連合赤軍事件主犯格永田洋子(ひろこ)氏死去」という記事を見て当時、20代後半で、自分と同世代の女性が、あんな凄惨な事件を起こした主犯格だったという事に驚きを感じました。

書店で「レッド」という漫画を手に入れて読んだり、ネットで連合赤軍関連の記事を見たりしました。震災前の1ヶ月は、毎晩のように連合赤軍事件について色々考えさせられました。

また、この事件の舞台は、群馬・長野県境のだけではなく、あたしの身近なところでも起こっていました。

あさま山荘事件の実行メンバー


坂口弘、坂東國男、吉野雅邦、加藤倫教、加藤元久

このうちの一人、坂東國男が仙台に潜伏していたことが有り、あたしが、学校の帰りに通ったり、友達の家に遊びに行く時に通る杜の都信用金庫黒松支店(振興相互銀行・仙台市泉区ではなく合併前の泉市)に1971年3月23日に強盗に入ったという事です。

当時の黒松の人口は2000人位で最新の団地。南以外の三方を崖に囲まれ、西側の崖を縫う感じで奥州街道(国道4号線)に接続。新興住宅地なので、人口の割りに交番が設置されず、近くにも交番が無く、富裕層が多い。また昼間は仕事の為男性の人口が極端に少ない。
南側は森林が多いが、熟練した運転テクニックがあれば走破出来る山道が複数ある。
などの理由から黒松支店をターゲットにしました。


強盗のメンバー

坂東國男、植垣康博氏、???? 合計三名
他、サポートメンバー(名取のアパート)

強盗後、警察は、仙台市内から出るクルマを一斉検問しますが、入り組んだ山道まで配備できず、また、坂東はじめメンバーは、市内から出ずに逆に市中心部に入るという大胆な行動を行います。主な潜伏先は、仙台市(東北大生の住むアパート)、名取のアパート、塩竃のアパート(メインのアジト)などで、検問が終わると名取と塩竃を撤収させて花巻方面に向かいます。

坂東・植垣氏のコンビ(通称坂東隊)は、赤軍派で唯一逮捕されない部隊でした。2人とも頭がよく、緻密な作戦を練るので、彼らの活躍のおかげで、あさま山荘事件まで、連合赤軍が捕まらなかったと言っても過言ではないかと思います(もう一人、革命左派の坂口という人もいますが・・・)。

まさか、知っている街で、のちにあさま山荘事件に繋がる強盗事件があったなどと思いもよりませんでした。

こんな事から、連合赤軍の事を調べるようになりました。今日は、連合赤軍に興味を持った理由を書きました。次回からは順を追って書こうと思います。植垣氏の本ベースの内容になるかと思いますがご了承下さい。