3月27日(木)-2°→+3.5°、
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、今日も寒~
、
6000歩。
ウェスタンにR-1などのお買い物、ついでに絹サヤ、スナップエンドウ、大葉
、時なし大根のタネ、購入。
昨日(3月26日)は沖縄慶良間島に米軍が上陸、〈沖縄戦〉の開始日とされている。〈硫黄島の戦い〉で日本軍の組織的戦闘が終了した日でもある(昨報)。マスコミは、フジテレビがニュースで触れたようだが、殆ど言及がなかった
。
本日産経新聞〈産経抄〉が、〈沖縄戦の特攻から80年、忘れてはならないこと〉と題してこれに言及した。
冒頭で言う。
<日本の悪口を書くのは熱心でも、命をかけて国を守った先人の歩みを教えるのは苦手だ。戦後教育の弊害は教科書になお顕著だ。・・・。
だからこそ知ってほしい。「死ぬことは何とも思わない。祖国日本はどうなるか。それだけが心残りだ」。こんな思いを残し、特攻で散華(さんげ)した若者がいる。80年前、沖縄戦が始まった3月26日早暁(そうぎょう)、伊舎堂用久(いしゃどう・ようきゅう)中佐らの飛行隊は、沖縄県の石垣島にあった白保飛行場から出撃して、慶良間(けらま)諸島沖の米艦隊に突入した。伊舎堂はそのとき24歳。
沖縄戦の陸軍特攻第1号だが、その名は歴史の陰に隠れてきた。八重山日報(本社・石垣市)の連載をもとに刊行された『歴史に葬られた特攻隊長』(将口泰浩著、徳間書店)に詳しい。〉
と。早速、「八重山日報」のHPを開いてみた。
〈特攻80年、平和誓う 伊舍堂隊を慰霊、実行委解散へ〉との大見出しで、26日(水)午前に行われた伊舎堂が率いた<誠第十七飛行隊>の慰霊碑 前〈慰霊祭〉の様子が報道されていた。
記事中、 伊舎堂家の親戚の〈前盛善宜氏は「若い隊長たちのおかげで、我々は生きている。後世に、継承していく」と決意を示した。〉と報じていた。
期せずして、27日付け『産経』は『正論』で、不世出の軍事評論家、兵藤ニ十八が書いていた。
<硫黄島の戦い>意義を説く、解説・快説・快論と感じるので、コピーしておく。
<正論>硫黄島の戦いが今に伝えること 軍事評論家・兵頭二十八
高杉晋作らが長州藩を幕府との対決路線に糾合して、第2次長州征伐が始まろうとした慶応元(1865)年が、硫黄島の戦いから、ちょうど80年前だった。同じ年の春、米国では南軍のロバート・E・リー将軍が降伏して、南北戦争が終わっている。
戦意も団結心も規律もない集団は、脅せば、戦わずして退いてくれる。
けれども抵抗心満々で、地面に穴を掘って小銃を持って立て籠もる相手を、メガホンの呼びかけだけで降伏させることはできない。
80年経(た)とうが160年経とうが、そこには変わりがない。
日米の激戦から80年を経て
小笠原群島のほぼ南端に連なる硫黄島は、東京から1250キロ離れた僻遠(へきえん)の「点」だった。
日米両軍がその確保を争ったのには、数理的な事情があった。
1943年から製造が開始された長距離爆撃機B29。これをマリアナ諸島から往復させれば、東京は空襲圏内に入る。
同年11月のカイロ会談で、米・英・華の3カ国がそんな大戦略を策定し、それを受けて米海軍のニミッツ大将は、迅速にマリアナ諸島のサイパン島を攻略した。
サイパン飛行場から東京までは片道2380キロあった。
7時間近くかかるかもしれぬ帰路の不安を考えれば、燃料は多めに抱えて飛びたい。
それがため、B29の搭載爆弾量は当初2トンに削られていた。
だがもし中間点に緊急着陸場所があるとなったら、その余分の燃料は爆弾に替え、投弾量を2~3倍にもできる。そんな中間飛行場として最良の立地の硫黄島が注目されたのは、自然であり必然の成り行きだった。
準備爆撃を74日間加えた後の45年2月19日、米軍は上陸を開始する。
日本兵は凝灰岩の地層に掘った深さ10メートルのトンネル内で、靱強(じんきょう)に敵の砲爆撃を凌(しの)ぎつつ、機会をみて地表に工事しておいた深さ2メートルの射撃壕(ごう)から迫撃砲を発射する戦法により、米海兵隊員に出血を強い続けた(第4海兵師団の統計では銃弾による死傷25%、砲弾破片創によるものが75%)。
米指導部に与えた影響
米海兵隊員の平均年齢は20歳から21歳であった。17歳の新兵も、少なからずいる。対する日本の守備兵は、30代や40代の応召兵が多かった。
兵器の性能は、日本側が概して見劣りし、弾薬量でも比較にならなかった。海兵隊の砲兵は、1日に105ミリと155ミリの砲弾を2万5000発、発射している。艦砲射撃と空爆が、これでもかというほどにそれを支援した。
にもかかわらず日本軍は、44年6月のノルマンディー海岸上陸作戦時を上回る人的損害を、米軍に与えた。
米国戦争指導部の胸に、改めて印象が刻まれた。
他国の兵隊とは違い、日本兵は窮地に陥っても投降しない。
上陸初日から18日間、従軍取材を続けたロバート・シャーロッド記者は、島から去る時点で、日本兵の捕虜は80人に過ぎなかったと書き残している。
米政府は、次の日本本土上陸作戦を、むやみに急がないことに決めた。
45年3月21日までの約1カ月の陸戦で、硫黄島の守備隊2万人は、ほぼ壊滅した。
先人が守ってくれた今日
その死闘は、むなしかったのだろうか?
終戦の間際、大本営の航空参謀だった奥宮正武海軍中佐が、実地調査の上で計算していたところによれば、東京が受けた焼夷(しょうい)弾空襲の被害トータルは、広島原爆に換算して5~6発分に相当した。
もし硫黄島が早々と無血で敵手に委ねられていたなら、そんなもので済んだはずはない。東京以外の諸都市の戦災規模についても、同様である。
硫黄島の2万人が、本土の数十万人を助けたのだ。
元米国務長官で国際政治学者のキッシンジャーは57年に公刊した『核兵器と外交政策』の中で、「平和とは、ある状態や、力関係の表現」なので、外交も、その関係に取り組まねばならず、平和を直接に目的とすることはできない、と説いた。そして58年刊の邦訳版には「単なる生存よりも、もっと大切な価値」がある、との序文をわざわざ寄せている。
実際、ポツダム宣言は、日本軍の無条件降伏を要求しつつ、日本国家には有条件の降伏を促す内容だった。
その「力関係」の実現に、硫黄島の2万人の敢闘が、疑いもなく影響を与えていた。
その「力関係」を土台にして、戦後の外交があり、今日われわれの安居楽業も実現されている。硫黄島の2万人は、今日なお、われわれを守ってくれているのだ。
そして読者は今、分かっただろう。
あなたが80年前の硫黄島に送られたとしたら、やはりあなたは、最後まで降伏することを選びはしなかった、と。(ひょうどう にそはち)

