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現地のケンミンショー

身近なケンミンショーに引き続き、ここでは各ケンミンの消費性向の中から、全国的にトップレベルの話題を現地にて訪ね歩くものである。

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 奈良県の全国一と云えば、国指定の史跡や国宝・重要文化財の多さである。
 史跡は総数116件で全国一である。
 国宝・重文は総数ではトップではないが、県の人口当たりではNo.1である。
 
 奈良県の史跡と云えば、高松塚やキトラなどの古墳を思い浮かべるが、縦横それぞれ約1kmで約100haの広さを持つ平城宮跡がその最たるものであろう。
 
 平城宮跡は奈良市の北部にある。
 阪奈道路から朱雀大路が始まり、その北に平城京入口の朱雀門が復元されている。

 そしての朱雀門の内側の中を近鉄電車が走っていることでも良く知られる。
 
 朱雀門からの北側は広場である。
 かつては政庁である朝堂院など政治に不可欠な建屋が並んでいたと云われる。
 
 その先の塀に囲まれた部分が第一次大極殿の領域である。
 その先には9年もの歳月をかけて復元された大極殿が聳えている。

 この復元大極殿が観光の目玉であろう。
 
 この第一次大極殿の東に第二大極殿跡がある。
 奈良時代の中期に都は恭仁京や難波京、紫香楽京へと遷都され、その後平城京に帰還して築かれたのが第二大極殿である。
 第二大極殿跡には基台や礎石が模され、標柱が立てられている。
 しかしこの辺りは何もなく、周りに草が生い茂る広い場所と云うだけであるが、反って近隣の市民の方々の憩いの場所になっている。
 
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 奈良と云えば書道の墨である。
 全国の80%もの生産を誇っている。
 その奈良墨は、今も大きな町屋や工場を構え、お花墨で知られる「古梅園」が大きく関係している。
 
 我が国の墨の歴史について振り返ってみる。
 古代、我が国では松の木を燃やしてその煤から作る松煙墨が主流であった。
 その後、中国宋との日宋貿易が盛んとなり、植物油を燃やして作る油煙墨「唐墨(からすみ)」が手に入るようになり、貴族たちが愛用するようになった。
 
 墨の色と云い品質と云い数段の差があった。
 それに目を付けた興福寺の僧侶たち、胡麻油を一手に握っていたことから製造・販売を初め、たちまち南都油煙として全国に知れ渡ることになったのである。
 
 この奈良の墨が更に有名になるのは戦国時代のこと、信長・秀吉の商工業振興策により、寺社独占から民間へと墨の製造販売が移行していったのである。
 その代表は、松井道珍が天正年間に創業したと云われるこの「古梅園」で、現在まで連綿として受け継がれて来ているのである。
 
 江戸時代は奈良の墨商は30?40軒ほどになり、幕府の直轄地と云うこともあって、隆盛した。
 しかし、このように隆盛の一途を辿ると横槍が入るのが常である。
 御三家紀州藩出身の吉宗将軍が、松煙墨である紀州墨を幕府御用達として援助したため、奈良の墨は窮地に立たされたが、負けずに頑張った結果、何とかトップの地位を保ったのであった。
 しかしこのころには墨商は半減したと云われている。
 
 幕府の直轄領であった奈良の産業は安政の大地震や黒船来航と共に衰退、壊滅的になった。
 墨も例外ではなく、このころには10軒余りの墨商しか残っいなかったと云われている。
 その残っている代表がここ古梅園で、長きに渡り奈良の墨を支えて来たのであった。
 
 また、古梅園の職人であった先代が事業を始めた錦光園という墨商も近くにある。
 にぎり墨体験で知られている。
 
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 総務省のデータによると奈良県のコーヒー消費量は全国一である。
 
 コーヒーショップや喫茶店の数が多いのかと思い調べてみたが、スタバやドトールは全国20位以下、喫茶店の数も18位と標準より少し多い程度である。
 と云うことは、店以外のところで飲むコーヒーが多いと云うことである。
 即ちコーヒー豆や挽き豆、そしてインスタントコーヒーの購入が全国一ということである。
 
 その観点で、近鉄奈良の駅前を歩いてみた。
 駅から近い所で2軒の店を発見した。
 
 
 これだけでは奈良県民のコーヒー好きの裏付けにはならないが、2位の石川県も併せて考えると、食文化が発達した地域であるからして、古代からのお茶文化を受け継ぎ、伝統を大切にしながら、良いもの、美味いものを取り入れようという感覚が、コーヒーの普及にもつながったのではないかとの分析も成り立つ。
 
 関係あるかどうか分からないが、名古屋のコメダ珈琲は関西初出店を奈良として、既に12店舗に増えているとのことである。
 またコンビニの入れ立てコーヒーが、奈良では好評と云われている。