反出生主義の私がSF映画パッセンジャーを見て思ったことを書いてみました。
反出生主義を中心に書いたので、最初からネタバレします。
⚠︎ネタバレ注意⚠︎
あらすじ
⚠︎ネタバレ注意⚠︎
あらすじ
宇宙船の中で予定より90年も早く1人だけ冬眠から起きてしまった男が、一生をこの宇宙船の中でくらさなければならず、もう一度冬眠に入ることも出来ないと知っていながら、自らの孤独や絶望感、虚無感を紛らすため、その苦痛を知り自殺まで考えこれは倫理的、道徳的に絶対に悪だと知りながら、自らの幸福だけを考え、90年間何も感じず、考えることもなかったであろう意識のない他者を一方的に起こす映画。
これを見ている時に思ったのは、この状況で他者を起こすというのは、子供を産むことに似ているということである。子供を産むということは時にこうであるということだ。この映画はハッピーエンドで終わるが、現実ではそうなるとは限らない。この世界で生きることを否定し、自殺する人が一定数いることが何よりの証拠だろう。そして、この世界も同様に眠りから「起こす者」がいるのだ。
自らが一方的に存在させた人間が生きているのも耐え難い苦痛をうけたら?「存在しなければ」、「生まれて来なければ」と思ったら?その人間にとって世界がこの宇宙船にいるのとほとんど同じように感じるとしたら?また無(冬眠)に戻ることも出来ず(この映画にはその選択が存在したが)、安楽死の選択もない。
その時に存在させた側にあなたが立っていたとしたら、あなたには何が出来るのか?
私はそう感じたことはない。私の子は大丈夫。この映画もそうだがそれは結果論である(実際は死ぬまで結果は分からないが)。産まれてきた子供が運良く(必然だと考える親が多いが)そうでなかっただけで、そうであった(ある)可能性もあるのだ。
ほとんどの親がうちの子は大丈夫、仮に何かあっても絶対に守ると思っているだろう。
だが、親がどんなに子供を愛そうと避けられない苦痛が世界には溢れている。実際に起きているいじめや強姦、殺人、事故などほとんどの犯罪、事件の被害者が、うちの子は大丈夫と思っていた善良(で楽観的で短絡的)な誰かの子供であり、加害者もまたそうなのである。
全員がそう感じるわけではないし、むしろ少数かもしれない。しかし産む時点、存在させる時点はもちろん、その先もいつそうなるか、そう感じるかは分からない。
どんなに幸福な人生をおくる確率が高くとも、その可能性が少しでも存在し、その苦痛を受けるのが「存在させられる者」であり、「存在させる者」ではないのなら、他者を存在させることは否定するべきではいだろうか。
この映画は自分が苦痛から逃れるためにその苦痛を耐え難いものと知っておきながら、同意もしていない他者にその苦痛を押しけるという最低(テーマの話で映画の評価ではない)の胸糞映画である。
この世界で死を考えるほど追い詰められたり、やりたくないことを強制させられたり(勉強や労働、納税など)、どんなに些細なことでも苦痛を受けたことがあると感じる人は、子供を産むということを改めて真剣に考えみて欲しい。苦痛を受けなかったと感じる人も、自分の子が苦痛を受ける可能性があることを、与えられたものが自分にとっては苦痛でなくともその子にとっては苦痛であるのかもしれないとうことを理解して欲しい。
そして子供を産むという行為はその苦痛を自分の子供に押し付けることになるかもしれないということを。
ここまで読んで、なお苦痛は必ずしも全ての人が受ける訳では無い、苦痛を受けるかどうかは産む産まないの時点ではなくその人の行いによって変わる、と考える人は「子供を産む、他者を存在させる」ということは少なくとも存在させられる他者が苦痛を受ける確率を0から動かすということであり、また、それが成される唯一の行為であるということを頭に置いておいて欲しいと思う。
多くの人々は、「当たり前」は当たり前であると言われているから、言われてきたからそれを「当たり前」だと認識しているように思うが、当たり前にも必ず理由はあるのだ。そしてそれは必ずしも正しいとは限らず、間違っていることもあれば、従う気にもならないくだらない理由だったりもする。
既存のシステムや善悪も同じである。正しいものも多くあるが、中には全く無駄なもの、間違っているものもあるということだ。
しかし、今まで無批判にそれらを受け入れてきた人には、何が間違っているのか、どこまでが(どこからが)正しいのかを考える前に、それらを数ある中から判別することすら難しいだろう。
それよりもいっそう難しいのは自らその思考を行うことではなく、当たり前だと思っていたことを他者に批判され、これはこうであると言われ、それを正確に理解し、受け入れることである。
反出生主義(上記等の理由から子供を産むべきではないという思想)もそのひとつであるが、その中でも最も受け入れ難いもののひとつであると思う。
大抵の人が疑ったことも無く、絶対的に善であるとされていて、今後子供が欲しい、将来きっと子供を産むだろうと考え、幸福な家庭に憧れ、子供はこういう風に育てようと夢想する。人生において子供とは自らの幸福を実現するのにほとんどの人にとって重要な位置付けにあるからだ。
更には出生主義者のための言い訳の余地を残したかのように、生物には子孫繁栄というシステムが遺伝子レベルで組み込まれている。
しかし、人類はそうやってきたから、生物とはそういうものだからと思考停止をせず、一度否定的に捉え、道徳的、倫理的に本当に正しいのか先入観や固定観念を捨て、エゴを切り離し客観的に(この思想においてはこれが一番難しいだろう)出生という行為そのものを考えてみれば、決して善であるとは言えないだろう。
出生という行為を散々否定してきたが、この思想は存在「させること」を否定しているだけで、存在「している」ことを否定している訳では無い。存在している者は最大限に尊重され、幸福な人生を送ることを願っている。
また、誤解されたくないのは、子供が可愛くない、愛するに値する存在ではないということではない。逆である。子供はこれ以上になく可愛い存在であり、愛するに値するという次元を超越した存在であると理解しているからこそ、その存在が受けるであろう苦痛を0のままにしておきたいのだ。
ここまで読んで、未だ子供を産むことを肯定的に考えている人はこの思想を理解する思慮深さと視野の広さが足りていない短絡的な人間か、この世界には苦痛があると理解していながらうちの子は大丈夫と考える楽観的な人間か、苦痛を受けるかもしれない、受けるだろうと分かっていながら自らの幸福を中心に考える(この映画の主人公と同じ)究極のエゴイストだけであると私は考える。
これを見ている時に思ったのは、この状況で他者を起こすというのは、子供を産むことに似ているということである。子供を産むということは時にこうであるということだ。この映画はハッピーエンドで終わるが、現実ではそうなるとは限らない。この世界で生きることを否定し、自殺する人が一定数いることが何よりの証拠だろう。そして、この世界も同様に眠りから「起こす者」がいるのだ。
自らが一方的に存在させた人間が生きているのも耐え難い苦痛をうけたら?「存在しなければ」、「生まれて来なければ」と思ったら?その人間にとって世界がこの宇宙船にいるのとほとんど同じように感じるとしたら?また無(冬眠)に戻ることも出来ず(この映画にはその選択が存在したが)、安楽死の選択もない。
その時に存在させた側にあなたが立っていたとしたら、あなたには何が出来るのか?
私はそう感じたことはない。私の子は大丈夫。この映画もそうだがそれは結果論である(実際は死ぬまで結果は分からないが)。産まれてきた子供が運良く(必然だと考える親が多いが)そうでなかっただけで、そうであった(ある)可能性もあるのだ。
ほとんどの親がうちの子は大丈夫、仮に何かあっても絶対に守ると思っているだろう。
だが、親がどんなに子供を愛そうと避けられない苦痛が世界には溢れている。実際に起きているいじめや強姦、殺人、事故などほとんどの犯罪、事件の被害者が、うちの子は大丈夫と思っていた善良(で楽観的で短絡的)な誰かの子供であり、加害者もまたそうなのである。
全員がそう感じるわけではないし、むしろ少数かもしれない。しかし産む時点、存在させる時点はもちろん、その先もいつそうなるか、そう感じるかは分からない。
どんなに幸福な人生をおくる確率が高くとも、その可能性が少しでも存在し、その苦痛を受けるのが「存在させられる者」であり、「存在させる者」ではないのなら、他者を存在させることは否定するべきではいだろうか。
この映画は自分が苦痛から逃れるためにその苦痛を耐え難いものと知っておきながら、同意もしていない他者にその苦痛を押しけるという最低(テーマの話で映画の評価ではない)の胸糞映画である。
この世界で死を考えるほど追い詰められたり、やりたくないことを強制させられたり(勉強や労働、納税など)、どんなに些細なことでも苦痛を受けたことがあると感じる人は、子供を産むということを改めて真剣に考えみて欲しい。苦痛を受けなかったと感じる人も、自分の子が苦痛を受ける可能性があることを、与えられたものが自分にとっては苦痛でなくともその子にとっては苦痛であるのかもしれないとうことを理解して欲しい。
そして子供を産むという行為はその苦痛を自分の子供に押し付けることになるかもしれないということを。
ここまで読んで、なお苦痛は必ずしも全ての人が受ける訳では無い、苦痛を受けるかどうかは産む産まないの時点ではなくその人の行いによって変わる、と考える人は「子供を産む、他者を存在させる」ということは少なくとも存在させられる他者が苦痛を受ける確率を0から動かすということであり、また、それが成される唯一の行為であるということを頭に置いておいて欲しいと思う。
多くの人々は、「当たり前」は当たり前であると言われているから、言われてきたからそれを「当たり前」だと認識しているように思うが、当たり前にも必ず理由はあるのだ。そしてそれは必ずしも正しいとは限らず、間違っていることもあれば、従う気にもならないくだらない理由だったりもする。
既存のシステムや善悪も同じである。正しいものも多くあるが、中には全く無駄なもの、間違っているものもあるということだ。
しかし、今まで無批判にそれらを受け入れてきた人には、何が間違っているのか、どこまでが(どこからが)正しいのかを考える前に、それらを数ある中から判別することすら難しいだろう。
それよりもいっそう難しいのは自らその思考を行うことではなく、当たり前だと思っていたことを他者に批判され、これはこうであると言われ、それを正確に理解し、受け入れることである。
反出生主義(上記等の理由から子供を産むべきではないという思想)もそのひとつであるが、その中でも最も受け入れ難いもののひとつであると思う。
大抵の人が疑ったことも無く、絶対的に善であるとされていて、今後子供が欲しい、将来きっと子供を産むだろうと考え、幸福な家庭に憧れ、子供はこういう風に育てようと夢想する。人生において子供とは自らの幸福を実現するのにほとんどの人にとって重要な位置付けにあるからだ。
更には出生主義者のための言い訳の余地を残したかのように、生物には子孫繁栄というシステムが遺伝子レベルで組み込まれている。
しかし、人類はそうやってきたから、生物とはそういうものだからと思考停止をせず、一度否定的に捉え、道徳的、倫理的に本当に正しいのか先入観や固定観念を捨て、エゴを切り離し客観的に(この思想においてはこれが一番難しいだろう)出生という行為そのものを考えてみれば、決して善であるとは言えないだろう。
出生という行為を散々否定してきたが、この思想は存在「させること」を否定しているだけで、存在「している」ことを否定している訳では無い。存在している者は最大限に尊重され、幸福な人生を送ることを願っている。
また、誤解されたくないのは、子供が可愛くない、愛するに値する存在ではないということではない。逆である。子供はこれ以上になく可愛い存在であり、愛するに値するという次元を超越した存在であると理解しているからこそ、その存在が受けるであろう苦痛を0のままにしておきたいのだ。
ここまで読んで、未だ子供を産むことを肯定的に考えている人はこの思想を理解する思慮深さと視野の広さが足りていない短絡的な人間か、この世界には苦痛があると理解していながらうちの子は大丈夫と考える楽観的な人間か、苦痛を受けるかもしれない、受けるだろうと分かっていながら自らの幸福を中心に考える(この映画の主人公と同じ)究極のエゴイストだけであると私は考える。