Amazing Grace

Amazing Grace

ピアノ、読書、美術館巡りなど・・・

Amebaでブログを始めよう!
「リンゴひとつでパリを驚かせてみせる」。
自らがそう語ったように、リンゴひとつで絵画の世界を変革してしまった画家がいます。後期印象派を代表する画家にしてモダンアートの先駆者。ポール・セザンヌです。

セザンヌは1839年、南仏のエクス=アン=プロヴァンスに生まれます。
父親は裕福な銀行家でセザンヌも当初は法律を学びますが、絵画への情熱を捨てることができず、22歳の時に画家を志してパリに出てきます。
デッサンの技術が未熟だったセザンヌは王立美術学校の試験に失敗し、まもなくアカデミー・シュイスに通いはじめ、後に印象派の長老格となるピサロと親交を深めます。
ピサロの紹介で、モネ、ドガ、ルノワールといった、マネを囲む若き前衛芸術家グループ(後の印象派)へと加わったセザンヌですが、田舎育ちで人付き合いが苦手な彼は印象主義の思想に共鳴しながらもこの都会のアーティスト集団に馴染むことができませんでした。
結局、印象派展で酷評され、サロンでも落選を繰り返したセザンヌは39歳の時にパリを捨て、失意のまま故郷エクス=アン=プロヴァンスに引きこもって製作を続けることになります。

「リンゴとオレンジ」はセザンヌが50代後半に描かれた彼の代表作で、ある意味、20世紀の絵画のありかたを決定付けた作品です。
ナプキンや皿の白さに果物の黄色や赤といった色彩がさえ、背景の緑がその鮮やかさをより際立たせています。
リンゴやオレンジは今にも転がり落ちて来そうなのに不安定さは感じられず、静物画なのに躍動感に溢れています。

エクス=アン=プロヴァンスに戻ったセザンヌが生涯をかけて研究したテーマ。
それはうつろいやすい外観にとらわれることなく、その内にある本質を描き出すことでした。
この「リンゴとオレンジ」も一見ありふれた静物画ですが、個々の果物は複数の視点から見られているかのように歪み、色彩についても現実と全くことなる描き方をされています。
奥行きと存在感を出すため、対象を丸、三角、四角、といった平面ではなく、球、円錐、円筒という立体に分解して組み立てなおしたり、異なる角度から見た形を重ね合わせることで彼はリンゴの最も美しい姿を描き出したのです。
これらの手法は「絵画は自然を模倣するのではなく再構築すべき」という彼の言葉とともにピカソらに大きな影響を与え、やがてキュビスムを生み出すことになります。
印象派の画家達が自然の「一瞬の光の輝き」や人間の「複雑な内面の機微」を感覚的に表現しようとしたのに対し、セザンヌが生涯をかけて追求したのはより普遍的で理論的な「永遠の本質」でした。

正直な所、セザンヌは僕にとって特別に好きな画家だというわけではありません。
それでもこんなにも生き生きと輝き、食べるのがもったいないと感じさせるリンゴを描く画家を、僕はセザンヌ以外には知りません。



ベートーベンは生涯に5つのピアノ協奏曲を残していますが、そのなかで最も有名なものがピアノ協奏曲第5番「皇帝」です。

この「皇帝」という標題の由来はこの曲の壮大なスケールと雄大な曲想があたかも皇帝を連想させたからだといわれています。
第1楽章はオーケストラの華やかな響きに続いてピアノの力強く即興的なカデンツァが鳴り響き、その勇壮なテーマは軍隊の行進を連想させます。
第2楽章はピアノがロマンチックで幻想的な旋律をゆったりと奏で、宗教的な祈りの雰囲気すら漂います
第3楽章は巨人の舞踏を思わせる躍動感溢れるロンドで、オーケストラの重厚な響きが輝かしいピアノの音色と混じり合い、劇的なクライマックスへと突き進みます。

「皇帝」は1810年頃、ナポレオン率いるフランス軍が、ベートーベンが暮らすウィーンへと侵攻し、程無くして占領下に置かれた時代に作曲されたものです
ベートーベンは甥カールの家の地下室にこもり、フランス軍の砲撃の轟くなかで作曲をつづけました。
この曲が持つ幾分軍楽的な響きは戦争を肯定しているわけではなく、むしろ、全人類への博愛と人間性の解放を願う強靭な精神の表れなのでしょう。   

戦火の中にあってさえこれほどの素晴らしい音楽を創造するベートーベンの才能と意思の強さには敬服するしかありません。





シェイクスピアと並び、イギリス文学史上最も成功した作家。チャールズ・ディケンズ。
クリスマス・キャロルは彼の代表作であり、イギリスで最も愛されているファンタジーです。

ヴィクトリア朝時代のロンドン。クリスマスイブの夜。
冷酷無慈悲な高利貸しスクルージ老人のもとに、かつての唯一の友マーレイの亡霊と時間を司る三人の精霊が現れます。
彼らに導かれたスクルージは時空を越えて、「過去」「現在」「未来」のクリスマスの夜へと旅を続けます。
忘れていた大切な何かとクリスマスの本当の意味を教えてくれる改悛と再生の物語。

かつて、イエスが幼子を祝福し「天国はこのような者の国である」と語ったように。
ディケンズにとって「無垢な子供」は何よりも大切な存在です。
貧しいボブ・クラチットの末息子で足の不自由な少年ティムは深い愛情と豊かな感性をもち、自らが人々の慰めとなることを願うだけでなく、スクルージの凍りついた心を溶かす救済者として役割を果たしています。
また、「過去」の精霊が思い出させてくれた寄宿学校での孤独な少年時代。父親との折り合いが悪かったスクルージを連れ戻しにきたのも彼の小さな妹のファンでした。

クリスマスキャロルに描かれているのは名もなき人々のささやかながらも幸福な営みです。
気の置けない仲間とのゲーム遊びや即席のダンスパーティー。リンゴソースとジャガイモでかさましした鵞鳥にヒイラギで飾り付けされたプティング。温かな暖炉の傍で奏でられた竪琴の旋律。
ふとまわりを見渡すと世界は愛で満ち溢れています。

ディケンズは僕が最も好きな作家の一人です。
彼の全作品に共通するテーマはキリスト教的な博愛精神。そして、人間の本質は「善」なのだという絶対的な信頼に基づく人間賛歌です。
加えて映画のカメラワークにも似た迫真のストーリーテリングと無限の想像力が産み出した個性的な登場人物。ヴィクトリア朝時代のイギリスを弱者の視点から描いた痛烈な社会風刺。
ディケンズこそイギリス文学を代表する作家として相応しいと思います。

A Christmas Carol (Oxford Bookworms Library, St.../Charles Dickens
¥1,044
Amazon.co.jp
大地と共に生きる農民の姿を、崇高な宗教的感情を込めて描いた画家。ジャン・フランソワ・ミレー。

ミレーは1814年、フランス、ノルマンディー地方の農家で八人兄弟の長男として生まれました。
厳格なカトリック信者だった祖母に可愛がられ、彼女の強い信仰心に影響を受けます。
22歳の時に絵画を学ぶためにパリに出たミレーは聖書やギリシャ神話といったアカデミックな絵画を学び、26歳の時にはサロンで初入選を果たします。
この頃のミレーは生活が貧しかったこともあり、肖像画や女性の裸体画ばかりを描いていたそうです。
結局、パリでの生活に馴染むことが出来なかったミレーは、35歳の時にコレラの流行を避けるため、パリ南方にあるバルビゾン村に移住します。
その村で貧しくとも懸命に働く農民の姿に感銘を受けた彼は残りの生涯を「農民画家」として生きようと決意します。
同じ頃、ルソーやコローといった画家達もバルビゾン近郊を訪れており、緑豊かな田園風景や農民の素朴な姿を写実的に描いた彼らはやがて「バルビゾン派」と呼ばれ、後世の「印象派」の画家達にも大きな影響を与えることになりました。

「晩鐘」はミレーが45歳の時に描かれた彼の代表作です。
この絵はミレーが幼い頃、いつも夕刻の畑で鐘の音に合わせて死者のために祈りを捧げていた、亡き祖母との思い出をもとに描かれたのだそうです。
背景には緑豊かな麦畑、それに対し、前景は痩せた土地で収穫はじゃがいものみ。二人が貧しい農民であることがわかるでしょう。
一日の労働を終えて、教会から聴こえるアンジェラス(天使)の鐘に合わせ、感謝の祈りを捧げる夫婦の上に、優しい夕暮れが落ちようとしています。

ミレーの「晩鐘」からは音楽が聴こえます。
両手を合わせた妻と帽子を持つ夫の祈りのつぶやき、澄み渡る鐘の音、遠くの鳥の鳴き声と、夕暮れの農村の様々な営みの音すらも聞こえてくるかのようです。
少し寂しさを感じさせる暗い色彩。水平線を軸にしたしっかりした構図。逆光の中で人物を立体的に浮かび上がらせる光の表現。
ミレーの「晩鐘」は日々の労働の崇高さ。互いに信頼し、愛し合う夫婦の美しさ。そして、貧しくとも感謝の心を忘れず、ひたむきに祈りを捧げる姿を通して、人間の尊厳を高らかに歌い上げているように僕には思えるのです。


徹底した写実性と光と影の劇的な明暗対比で激しい感情を表現したバロック絵画最大の巨匠ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ。
彼はその生まれ持った才能と暴力性によって破滅的な生涯を送った「呪われた天才」でした。

16世紀後半、カラヴァッジオはイタリアのミラノで3人兄弟の長男として生まれます。
幼くして両親を亡くしたカラヴァッジオは、13才の頃よりミラノの画家ペテルツァーノの徒弟となり絵画を学びます。
21歳の時に役人との間に暴力事件(一説には殺人事件)を起こし、ほぼ無一文でローマへと逃れます。
以来、家も仕事も家族すらもなく、飢餓と貧困の底で喘ぐこととなりました。

「聖マタイの召命」はカラヴァッジオが28才の頃に発表された代表作です。
光と影の強烈なコントラストと同時代の民衆をモデルにした写実的な描写で、それまでの宗教画の概念を大きく変えることになったこの作品は、後に聖マタイと呼ばれることになる罪深き収税史レビをキリストが自らの使徒にして召そうとする瞬間が描かれています。

場末の寂れた酒場でしょうか、ギャンブルと酒でくさい息を吐く男達は金勘定に余念がありません。
そこに現れた二人の男達、突然の侵入者にテーブルにいた男の何人かは身を固くします。
頭上に金の環がうっすらと浮かぶ、背の高い痩せ型の青年。彼がイエス・キリストです。
イエスが真っ直ぐに見つめ、指差す先にいるのはテーブルの左端でうつむいたまま、金勘定を続ける若者。彼が収税史レビです。
当時のユダヤ社会では、ローマ帝国の手先となり同胞から金を取り立てる収税史は、裏切り者であり、侮蔑と憎悪の対象でした。
周りの男達がイエスの出現に驚き、うろたえるなかで、ひとり顔を挙げることすらせずに手元のコインを凝視し続けるレビ。
その異様な光景は彼の暗い内面を表しているかのようです。

奇跡は何も起こっておらず、誰一人としてこの出会いがもたらす意味をを理解してはいないでしょう。
イエスは精神的な気高さと激しさを秘めたまなざしで、静かに若者をみつめています。
画面の大半を占める闇の中、ドアから差し込む強烈な射光は収税史レビの姿を照らしています。
これは神の救済を意味するのでしょうか。

後年、カラヴァッジオはその激しい気性ゆえに画家としての名声を獲得した後も殺人や暴力事件を繰り返し、38歳の短い生涯をおえます。
さて、カラヴァッジオはその人生同様、暗く、暴力的な表現を伴う作品を数多く残しているのですが、不思議なことにそれらの作品は深い叙情性や宗教性にもあふれているのです。
自らが暗い内面を抱えていたからこそ、彼の描く影はどこまでも罪深く、彼の描く光はどこまでも美しいのかもしれません。





アメリカ文学を代表する作家J・D・サリンジャーが書き残した唯一の長編小説「ライ麦畑でつかまえて」。
この本は傷つきやすい思春期の若者の苦悩や孤独を完璧に表現した「青春のバイブル」として、また、ジョン・レノンを暗殺したマーク・デビット・チャップマンの愛読書として世界中に知られています。

物語にそれらしい筋はほとんどありません。
全寮制の名門高校を退学になったホールデン・コーンフィールドという少年が実家に帰るまでの3日間、ニューヨークの街を放浪する。ただそれだけの話です。
その3日間で彼は吠え、泣きわめき、絶望し、彷徨い、歩き、眠り、回想し、世の中のほぼ全てを否定し、ほんの少しのものだけを強く、強く肯定します。

今は亡き最愛の弟、アリーの「キャッチャーミット」。かつて隣の家に住んでいた風変わりな女の子の「手の温もり」。そして、「小さな妹」のフィービー。

ホールデンは世界に対して全くの無力です。狂おしいほどの叫び声をあげた所で彼には何ひとつ変えられません。
何しろ彼は自分の一番大切な女の子に最後まで電話のひとつもかけることができないのです。
アリーが亡くなったあの日。血まみれの拳でガレージの窓ガラスを壊してまわった時だって世界は微動だにしませんでした。

それでも、ホールデン・コーンフィールドは大都会の真ん中で世界を糾弾し、無駄金を浪費し、寒さに震え、傷つきボロボロになりながらも、わずかな希望を求めて彷徨い続けます。
まるで僕達の時代の、受難のキリストのように・・・・。

物語の終盤。回転木馬に乗ってくるくると回り続けるフィービーをホールデンが見守るシーンは本当に爽やかで胸が温かくなります。

残念なことに僕はもうホールデンが持つヒリヒリするような感受性に共感できるほど純粋ではありません。
それでも目を閉じると浮かんでくるのはあの馬鹿げた赤い帽子を被り、詩がいっぱいに書き綴られたキャッチャーミットをはめた「ライ麦畑のつかまえ役」が子供たちをふわりとつかまえる姿です。

この先どれだけ年月が流れたとしても、この本は僕にとって大切な宝物であり続けるでしょう。


The Catcher in the Rye/J.D. Salinger

¥743
Amazon.co.jp
自らの孤独な心情をモンマルトルの風景に込め、慈しむように描きだした画家。モーリス・ユトリロ。

ユトリロはパリのモンマルトル、ドガやルノワール、ロートレックらのモデルを勤め、愛人でもあり、自らも女性画家として有名になる18歳のシュザンヌ・ヴァラドンの私生児として生まれます。
たまたまスペイン人ジャーナリスト、ミゲル・ユトリロが彼を認知しましたが、ユトリロの本当に父親が誰なのかは定かではありません。
美貌と才能に恵まれ、自由奔放に生きる母親シュザンヌへの愛情と憎しみは生涯に渡って彼を縛りつけ、苦しめることとなります。
生後まもなく祖母に預けられたユトリロは孤独な少年時代を過ごし、10代にしてアルコール依存症と診断され、愛情に飢えた精神的に不安定な人物へと成長していきました。
20才の時、精神病院への入退院を繰り返していたユトリロはアルコール依存症のリハビリのために独学で絵画を始め、以降、絵を描くことだけが彼の生きがいとなります。
母親ゆずりの才能は凄まじく、彼の絵は瞬く間に評判となりました。

ユトリロの絵の特徴はそのほとんどがパリの街並みを描いた風景画であることです。
特に20代後半、絵の具に漆喰を混ぜ会わせて作る独特の「白」で、モンマルトルの街並みを描いた時期は「白の時代」と呼ばれ、高く評価されています。
「白の時代」に描かれるユトリロの風景画には人物がほとんど登場しません。
ユトリロの描く風景は孤独と静寂の中にありながら、その「白」にはどこか温かさを感じます。
どうしようもなく不安で眠れない夜に飲む一杯のホットミルクのような「白」

「小さな聖体拝受者」は白の時代を代表する作品で、題名の由来はこの教会の佇まいが聖体拝受式の白い服の少女を連想させたからだと言われています。
「白の時代」はユトリロの信仰の芽生えと無関係ではありません。
この白く孤独な教会が切ないほどに美しく、多くの人々の心を惹きつけるのは、画家自身の癒しがたい渇望、安らぎを求める祈りがこめられているからなのかも知れません。






 


エコール・ド・パリを代表する画家。アメデオ・モディリアーニとその妻ジャンヌの悲恋物語は今では多くの人々に知られています。

モディリアーニはイタリアのリヴォルノで裕福なユダヤ人の家庭に生まれます。
16歳の頃より肺結核を煩い、療養のためフィレンツェ、ヴェネティア、ローマなど気候のよい土地を巡る旅に出ますが、その時に出会ったシエナ派の古典美術、特に彫刻に大きな影響を受けます。
21歳の時にパリに移住し、若い芸術家が数多く住むモンマルトルにアトリエを構えますが、やがてモンパルナスに拠点を移します。
アフリカの原始美術に傾倒し、彫刻家を志したモディリアーニですが、健康状態の悪化により彫刻は断念せざるを得ず、絵画の制作を本格的に開始します。
彼の絵の最大の特徴である縦に引き伸ばされたような面長な顔と長い首、アーモンド形の瞳による独特の肖像画はそのようにして生まれました。

モディリアーニにはどうしても悲劇の画家としてのイメージが付きまといます。
彼は天才的な絵画の才能と類い稀な美貌を持ちながら、酒と麻薬と女に溺れ、周囲の無理解に苦しみながら、貧困のなかで35歳の生涯を終えました。
33歳のモディリアーニは19歳の画学生ジャンヌと出会い、運命的な恋に落ちますが、周囲の人間は二人の結婚を認めようとはしませんでした。
モディリアーニがユダヤ教徒だったからです。

「黄色いセーターを着たジャンヌ・エビュテルヌ」はジャンヌの肖像画で最も有名な物のひとつです。
まず、その色彩の豊かさに驚かされます。特にジャンヌの身を包むゆったりとしたセーターの「黄色」は魔法の絵の具でも使ったのかと疑いたくなるほどの美しさです。  
柔らかく首を傾げ、画家を見つめるまなざしからはジャンヌの母性的な優しさが伝わってきます。
セーターの柔らかなふくらみが示す通り、この時ジャンヌはモディリアーニとの娘を身ごもっていました。
モディリアーニの描く肖像画には言い知れぬ気品と深い精神性があります。
特にジャンヌを描いた晩年の肖像画からは慈愛の感情がストレートに感じられ、まるで聖母を描いたかのような神々しさです。

モディリアーニが息をひきとった二日後、ジャンヌは自宅の5階の窓から身を投げ彼の後を追いました。
生前は決して結婚することを赦されなかった二人ですが、現在はベール・ラシェーズ墓地に共に埋葬されているようです。
ジャンヌの墓碑銘には「究極の自己犠牲をも辞さぬほどの献身的な妻」と刻まれています。



 


アメリカ文学を代表する作家。スコット・フィッツジェラルドの最高傑作「グレート・ギャツビー」。

1920年代アメリカ。第一次世界大戦が終結し、アメリカ東部に戻ってきたニック・キャラウェイは証券会社に勤めることになり、NY郊外のロングアイランドに移り住む。
夏の始まりを告げるある朝、ニックの元に隣家の主人ジェィ・ギャツビーから招待状が届く。
彼は宮殿のような豪邸で毎夜の豪華絢爛なパーティーを開きながら、その正体は誰も知らない謎の人物だった。

これほど美しい魂の持ち主がかつて存在したでしょうか?
失った恋人を取り戻したい。その思いだけを支えに、社会の裏道を歩みながら、全ての情熱を振り絞って巨万の富を築き上げたジェイ・ギャツビー。
彼はその純粋すぎる魂ゆえに恋人を、そして、幸せだった過去を取り戻せると最後まで信じて疑いませんでした。
ギャツビーがあれほど恋焦がれ、全身全霊をかけて愛したかつてのデイジーはもういません。というよりも、そんな人間は最初から存在しなかったのかも知れません。
デイジーは自分勝手で打算的な一人の女でしかありませんでした。
それにも関わらず、ギャツビーは彼女の犯した罪を全て自分で被り、破滅への道を歩んでいきます。

かつてのギャツビーが憧れ続けた上流階級の人間達の醜いことといったらありません。
そこは自分勝手なエゴと空虚な欲望が支配する世界です。
毎夜開かれる華やかなパーティーで、着飾った大勢の人々に囲まれていたにも関わらずギャツビーはいつも孤独でした。
物語の語り手であるニックとギャツビーのささやかな交流は本当に胸が温かくなります。
恐らくニックはギャツビーにとって、たった一人の友達だったのでしょう。


The Great Gatsby (Wordsworth Classics)/Wordsworth Editions Ltd
¥324
Amazon.co.jp
印象派を代表する巨匠、ピエール・オーギュスト・ルノワール。
彼は溌剌とした時代の息吹と生命の歓びを明るいタッチで描き続けた「幸福な画家」でした。

ルノワールはフランス中南部のリモージュで仕立て屋を営む両親の6番目の子供として生まれます。
一家は程なくパリへと移住し、幼い頃から画才を発揮していたルノワールは13才にして陶器工場の見習い絵付士として絵の経験を積みます。
21歳の時に国立美術学校に入学し、シャルル・グレールの画塾に通うルノワールは生涯の友となるモネとシスレー。普仏戦争で若くして命を落とすバジールと出会います。
彼らはよくアトリエを飛び出し、パリ南東のフォンテンヌブローの森へ戸外製作に出かけました。後にピサロやセザンヌもそれに加わります。
また、当時、画壇で大スキャンダルの中心にいた画家マネのバティニョール地区に構えられたアトリエで彼らはドガやベルト・モリゾとも親交を結びます。
バティニョール派と呼ばれていたこの若い画家達は、後に印象派と呼ばれ、近代絵画の大革命を巻き起こす事になります。

さて、モネと共に戸外製作を行い、筆触分割(絵の具を混ぜ合わせることなくキャンバスの上に併置する方法、光の複雑な質感と濁りのない色彩を表現できる)を始めとする印象派の技法を研究したルノワールですが、風景画に重きを置く他の印象派画家とは違い、ルノワールが好んだモチーフは豊満な「女性」や愛らしい「子供」といった人物画でした。

第3
回印象派展に出品された「ムーラン・ド・ギャレットの舞踏場」はルノワールの代表作で印象派の記念碑的作品です。
パリのモンマルトルの丘の庶民的なカフェで陽気にダンスを楽しむ人々と木々の間から射し込み移ろう斑点状の木漏れ日。
バラ色に頬を染めた女性たちは見るからに健康そうで、その瞬間、世界には悲しい出来事などなにひとつ存在しないかのようです。
現実が暗く、悲惨であればこそ「絵画とは歓びを描く」ものであるべきだと語ったルノワール。
「ムーラン・ド・ギャレットの舞踏場」は彼が願った理想の世界を描いたものなのかもしれません。