◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇2008年2月27日水曜日の記事


「いま」ある生命を生きる・・・。

私が、自分の「いのち」というものを始めて意識したのは、小学生の時でした。


「ノストラダムスの大予言」というのが世間をにぎわした時です。

その予言によると私は38歳で死ぬことになっていました。(笑うところではありません)


当時、まだ幼かった私は、初めて「死んだらどうなるんだろう」と真剣に悩みました。

「38歳だと、結婚してるだろうか」

「子どもはいるのだろうか」・・・など、つたない想像力であらん限りの未来像を描いてしまっていました。


しかし、現実は、

それよりも先に、私の目の前から大切にしたいと思っていた人を奪い去っていきました。

高校の時の同級生。

教師になってからの同僚の、大好きだった先輩は、2人・・・。

愛する妻のおなかにいた、会うことのなかった我が子。

同僚の両親。

お世話になった、友の父や母。

そして、自分にとっては、かけがえのない第二のふるさとの、学校の子ども、そして先生・・・。


・・・親族も含めれば、数限りない命が、僕の前から・・・。

病に冒されたときには、自らのいのちを・・・と考えた時期もありました。


その度に、「どうして!」と天をあおいで叫ぶことしかできませんでした。

何もすることができない・・・。


そんなとき、

・・・「生きる」ということに、私たちは、何を見出すことができるのでしょう。

・・・「生きる」ということに、私たちは、どうしてこうまで無抵抗なのでしょう。

そのこと自体に、「生きる」ということの意味があるのでしょうか。


悲しみにくれるとき、そんな余裕が僕にはありません。

ただ、泣いて・・・、

ただ、何もできなくなって・・・、

時間が経つのを忘れることくらいしかできません。


それで、許してください。

何もできない僕を・・・。

何もできなかった僕を・・・。

あなたの「いのち」を受け継いで、なんて大きなことは、僕にはできません。


ただ、ただ、・・・

・・・「あなた」をいつまでも想いながら、

僕は、僕の人生を、

また「明日」を生きていこう、と思うのです。

それが、僕の「生きること」なのかと、ちょっと思ったりするのです。



それが、せめてもの、僕にできることだと思うから・・・。

「いま」ある、この命に感謝しながら・・・、

僕は、「いま」を「生きて」いきたいと思うのです。




合掌





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$大応援団-秋のブルームーン




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