久しぶりにFacebookした。
と言ってもこのblogの更新のお知らせなのだが(笑)

何となくリンクを貼ってみた↓

さてそのFacebookなのだが、何もFacebookが良いとか悪いとかと言うことではない。

その昔、世の中にTwitterやFacebookなどのSNSが広まってきた頃、流行や情報に疎い自分はケータイもカメラ機能の使い方も儘ならず、ましてSNSなど何処か遠い星の出来事のようで、まるで興味も関心なかった。

でも、それでも普段の生活には何ら不便や不自由もなく田舎者の田舎暮らしを満喫していた。

それがあの日、ライフラインも衣食住も通信もガソリンもその全てが絶たれた。

数日して発電機で電気を得てテレビを見れるようになり状況が分かり始めると、この辺の情報が殆ど無いらしく、情報の提供を呼び掛ける放送が繰り返えされていた。

ところが、電気は発電機で何とかなるとしても、ケータイの中継局も変電所も高圧の鉄塔もなんにも無くなっているので、いくら呼び掛けられても指を咥えて見ているしかなかった。

そんな生活が暫く続くうち、どうやらTwitterなら繋がるらしいという情報が入ってきた。

それでも情報に疎い自分は何処か他人事のようだった。

そして秋。

山田町のクジラ公園に運び込まれていた町内の瓦礫山が発酵熱による自然発火で瓦礫山火災が発生した。

火災と言っても炎が立ち上る火事とは違っていて、高さ30mにも積み上げられた瓦礫の最深部から煙がもぅもぅ燻っていて、その煙が船越地区全体を悪臭と共に包み込んだ。

2tバケットの大型バックホウ数台で瓦礫山を崩しながら消防車数十台による24時間放水が続いた。

瓦礫山を崩してダンプで運び出すのだが、なんとその重機のオペレーターに同級生がいた。

あの煙の中で命懸けの消火活動だ。

話しを聞いてみるとペラペラのマスク1枚であの煙の中で瓦礫と格闘していたと言う。

彼だけでなくバックホウのオペレーターもダンプの運転手も消防団も全員だ。

唖然とした。

そこで思いついたのがTwitterだった。

早速登録して「SOS 瓦礫火災用のマスク」と発信してみた。



とまぁ、こんな感じで今に至るわけなのだが、そこには何となく何かに疲れた自分がいた。

とにかく全てがただただメンドイ。


Facebookもずいぶんご無沙汰した。

最新の情報も流行も別にもうどうでもいい。

今使っているスマホもバッテリーが半日もたない。
少し前なら慌てて機種交換したが今はどうだ。
まぁ別にいいか。
と流している。

自分の事なのに何処か他人事のようでお気楽なものだ(笑)


でもなんか、昔の自分に戻ったような気がした。

アルスト作ったり五徳作ったり、好きなことをマイペースで出来てるような気がする。

予選に5回も出たNHKのど自慢にはもう応募することもないだろう。


県庁所在地から本州で一番遠い町のド田舎で、絵に描いたような田舎者が誰に迷惑をかけるわけでもなくただ普通にド田舎暮らしをしている。

まぁ、なげやりに乱暴な言い方をすると被災地という目線で見ると復興は無理だと思うがそれすらももうどうでもいい。

誰が何を言ったところで、やはりなるようにしかならないのが現実だ。

総理が来たってその通り。

何とか大臣が来てもその通り。

土工事が行われていれば土建屋さんが。
家を建てていれば大工さんが。
お昼になれば弁当屋さんが。
夜になれば飲み屋さんが流行る。

賢い人は儲け、そうじゃない人はそれなりに。

残念なようで悲しい感じもするが、妥協点と諦めをどこに置くかにもよるが世の中精々そんなものなのだ。

震災から丸7年。

日数はと言うと365をかけると2,555となる。

その間うるう年1回とすると2,556。

今日は4月14日なので+34日で2,590日。

その間、「震災」に、と言うか「SNS」に踊らされていたような気がする。

自分を見失った2,590日。

2,590日ぶりに自分を取り戻した。

と言えるかもしれない。

その間たしかに貴重な体験をしたし本当に有難い出逢いもあって今でもお付き合いさせて頂いている。

世の中に無関心で、惰性で生きている昔の自分を思い出したような感じがする今日この頃だ。

そう言えば震災の前の年の冬、外で作業している自分を5メートルぐらいの上空から見ていたことが3回ほどある。

もしかしたら抜けていたんだろうか。

たぶん自分は生きてるべきではなかったのではないだろうかと思ったものだった。

最近思い出したようにあの時の感覚に似た感覚がしばしばある。

先のことはわからないが、生きているうちにマイペースに戻れてよかった。