1月5日(火曜日)
ブログネタ:2016年の目標決めた?
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2016年の目標決めたって
マジ目標は有るけど、ブログの目標を
それは、エロく賢く
モデル級の美人さんの生脚
ちょっと年くってる生脚もええなぁ
と言う記事や、
武田信義(武田太郎・竜光丸) 1142-1200
逸見清光の2子。母は手越遊女。手越は今の静岡市。『卜部本武田系図』には池田遊女とあるが、手越と池田の距離はそう離れてはなく、同一場所での表現の違いと考えられる。
『卜部本武田系図』には1128年8月15日生まれとある。『願成寺記』によれば、13歳の時に源為義を烏帽子親として元服している。
1180年の以仁王の平家追討の令旨に応じ挙兵、甲斐源氏独自の判断で同年8月波志太山で俣野景久、駿河目代橘遠茂等を撃破。8月28日付けの新田義重が平清盛に宛てた書状では「義朝の子は伊豆国を領し武田太郎は甲斐国を領す」と全く同等に扱われている。9月には一条忠頼等と信濃の平家方の管冠者を大田切郷城で自害させ、10月には武田信義、一条忠頼、板垣兼信、武田有義、安田義定、逸見光長等の軍は富士川で平惟盛軍を敗走させ、そのまま駿河、遠江を制圧した。
1183年、源頼朝に与えられた宣旨により、信義及び甲斐源氏は完全に頼朝政権に吸収されてしまった。1184年1月源範頼に従い子忠頼、兼信、信光と共に入京、勢多、宇治で木曽義仲軍と戦い、これを破り義仲を敗死させた。2月、一の谷合戦にも参戦。
最近の研究では信義自殺説が有力になっている。『吾妻鏡』の1186年(文治2年)3月9日条の「九日丁亥、武田信義卒去(年五十九)」とあり、そのまま生没年を確証していたが、1190年11月8日の記事に「武田太郎信義(最末一騎)」と頼朝が上洛して院の六条殿御所に参じたときの随兵に名が見えている。また1194年6月28日に東大寺の四天王像の一つ持国天の造立を命じられており、同年11月21日にも鎌倉の御霊前浜での小笠懸の射手の1人に見える。この事については五味文彦氏が『甲斐国と武田氏』の中で正治2年と文治2年を誤ったのでは無いかと考えておられる。そうなると生没年は康治元(1142)年生まれで正治2(1200)年没となる。
菩提寺は鳳凰山願成寺。
こんな歴史記事を書いたり
今年は義光流人名辞典復活したいなぁ・・・
源義光墳墓 義光元服地、これ以降新羅三郎義光と名乗った
阿波小笠原氏でつまずいてる現地調査せねば・・・
佐竹氏は現地調査して、常陸太田市市役所にも行ったもんね
常陸太田市市役所
南部氏が難しい八戸南部から三戸南部に本家が移ってるが、八戸当主の100年が判らない
八戸南部信長が京の武田信虎屋敷に滞在してるのが判ってるが、その前後不明だし、多分この信長が八戸が本家だった最後
八戸に行って調査せな判らないね
本能寺の変も考えたい
阿弥陀寺の織田信長・信忠墓 織田信長と本能寺変戦死者の墓
本能寺の変、単純に考えたら面白い事発見した
疑われた人の婚姻関係を図にしたら、一つの家につながる・・・
明智光秀を歩くってのも面白いかも
白川沿いにある明智光秀塚 明智光秀が築いた坂本城址
西教寺の明智光秀墓 谷性寺の明智光秀首塚
まぁ大津、亀岡、福知山が中心になるだろうから、花巡りのついでに寄りたい
あと、城と桜かな
桜の頃、山陽道か東海道を回りたいもちろん千年桜も
姫路城 津山城
山高神代桜樹齢2000年 根尾谷淡墨桜樹齢1500年
仕事する時間無くなるけど・・・γ(▽´ )ツヾ( `▽)ゞ
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