1月31日(土曜日くもり


『日本城郭体系』12大阪・兵庫で、

「標高約24mの海に突出した丘陵尾根にあり、山麓北方に館跡と伝える所がある。応永年間の武田山城守久忠が初代といわれ、のち天正9年の羽柴秀吉の淡路攻めで滅亡した」

この記事だけで、探しに行った・・・〝標高約24mの海に突出した丘陵〟を目指し、最初に目を付けた所←明日記事にしますはしっくりこず、近くの郵便局で聞いてみたチョキさすが地元の郵便局、城跡は知ってた・・・が、武田氏に関しては知らなかった叫び1394~1428(応永年間)から1581年の約180年間、武田氏の居城だった事になるグッド!

しかし伝えられている名前は、山城守久忠、彦五郎、弾正、のみ叫び多分、最初と最後らへんではなかろうかはてなマーク1534年武田氏が伊加利金山城主橋本永貞入道興斎を打ち取っているが、これが彦五郎で、1581年羽柴秀吉に滅ぼされたのが、弾正ではないかと推察する。

それと、守護所養宜館跡東側に細川尚春(淡路守護)と共に武田万之丞が祀られている祠がある。1519年尚春が三好之長に殺害された時、万之丞は同じく殺されたのであろう。

また元亀、天正年間(1570~1593)の頃、武田山城守が春日神社を創建しているが、この山城守が最後の武田氏であろう。山城守は代々武田氏の通称だったと思われる。



阿那賀城址遠望

阿那賀城遠望

左が弁天島、右が〝標高約24mの海に突出した丘陵尾根〟

応永年間の守護は、細川満春、満俊。特に満春は1399年に大内義弘が挙兵した応永の乱に、将軍の命で討伐に向かいこれを敗死させている。武田山城守久忠も従軍していた可能性はある。



阿那賀城址2   阿那賀城址5

頂上には鳥居が建っており、常夜灯には〝春日神社〟とある。



阿那賀城址3 阿那賀城址

城跡と思われる場所

淡路武田氏はどの氏族かはてなマーク阿那賀湊は阿波に渡る福良湊の予備港であり、その海路は阿波、讃岐、備後鞆、摂津である。この重要な湊を守り、また守護尚春と一緒に祀られ、また江戸時代には守護館の養宜館近くで〝武田土居〟と言う字が残っている事から、淡路細川氏の重臣に間違いない。このように守護家から重用される武田氏は、甲斐武田氏しか考えられない。



阿那賀城址4

城跡からの眺め目

史料が少なすぎる叫び


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