2015年1月2日(金曜日晴れ雪


平成27乙未年正月特別企画第二弾は、熊野神社の朱印ですグッド!



熊野3

12月の京の熊野三山巡りでも、三社共に〝立派な・・〟と言われた朱印帳チョキ


MR(医薬情報担当者=ドクターへの接待営業マン)時代、1年半和歌山の病院を担当してて、毎月熊野三山巡り&那智か白浜でゴルフしてたチョキ



熊野本宮大社
熊野2

熊野三山の一社で、熊野権現・熊野坐神社ともいう。全国に分布する熊野神社約3100社の総本社。延喜式内社。祭神は熊野牟須美神・速玉之神・家都御子神(主神)・天照大神。

創建年代について『扶桑略記』は崇神天皇の時といい、『帝王編年記』は崇神天皇65年(BC33年)とする。

『長寛勘文』所引の熊野権現御垂跡縁起によると、熊野神は唐の天台山から、九州の彦山、伊予の石鎚峯、淡路の遊鶴羽峯を経て紀伊国切部山に渡り、熊野新宮南の神蔵峯に降臨、その後、東の阿須加社の北に勧請、初めて「結早玉家津御子」の神名を現し、13年後に本宮大湯原のイチイの木末に月形で天降ったという。また『長寛勘文』の一説には『延喜式』神名帳の出雲国意宇郡に熊野坐神社・速玉神社が見える事から、紀伊熊野神と出雲熊野神は同神とし、家都御子神を素戔嗚尊にあてている。


熊野那智大社
熊野4

熊野三山の一社で、俗に熊野十二所権現・那智山権現ともいう。祭神は大己貴命・家都御子大神・速玉大神・熊野夫須美大神(主神)・天照大神。『延喜式』神名帳には見られない。

孝昭天皇の時(BC475-BC393年)、裸形上人が十二所権現を祀ったとか、仁徳天皇の時(313-399年)に鎮座したとか伝えられるが不明。那智山は新宮・本宮と異なり、大滝を神聖視する原始信仰に始まるといわれ、社殿が創建されたのは後のこととされる。

当社が本宮・新宮と併せて熊野三山の一社として現れるのは、1083年で少なくともこの時以前に三山共通の三所権現を祀る神社として成立したと推定される。



熊野速玉大社
熊野

熊野三山の一社で、俗に熊野新宮という。祭神は、熊野夫須美神・家都御子神・天照大神・熊野速玉大神(主神)。延喜式内社。

『扶桑略記』『帝王編年記』『水鏡』などは創建を景行天皇の時(71-130年)とするが、明らかでない。境内は縄文時代の遺跡であり、古くから人々の生活の場であったことがわかる。当社南の神倉山では銅鐸が出土、また東方にあって弥生時代の住居遺跡のある阿須賀社付近は熊野神の降臨地とされており、当社地を含めた熊野川河口一帯は、古来霊地とされていたと考えられる。

18代湛快ののち、熊野三山別当は新宮と田辺の二つの別当家から交替で出すことになった。源平合戦時、当初新宮別当家が源氏方、田辺別当家が平家方についた。源為義の娘丹鶴姫は弟の新宮十郎行家とともに新宮別当家で成長している。1180年行家は以仁王の平家追討の令旨を奉じて東国へ下り、一方田辺別当家湛増は千人を率いて新宮へ押し寄せ、新宮・那智連合軍に敗れて熊野本宮に退去している。湛増は丹鶴姫と湛快の間の子といわれ、のちに源氏方となって、1185年には熊野水軍を率いて源義経に味方し、平家を屋島・壇ノ浦の戦いで破っている。



熊野神社
熊野3

祭神は伊弉諾命・伊弉冉命・速玉男命・天照大神・事解男命。

社伝によれば811年日円阿闍梨の勧請により創建されたと伝えるが、『中右記』1103年3月11日条により、園城寺の僧増誉が、白河上皇の意を受けて、熊野新宮御霊を勧請したのが創祀と思われる。同じく増誉によって創始された聖護院の鎮守社で「熊野権現」とよばれ、崇徳院勧請の東山若王子の「熊野権現」、後白河院勧請の今熊野の「新熊野社」と並ぶ、院政期に創立された熊野社である。


新熊野神社
熊野

祭神は伊弉冉命。熊野信仰の高まりのなかで、1160年後白河院が紀州熊野権現本宮の祭神を勧請し、院御所である法住寺殿の鎮守としたのに始まる。以後、後白河院や後鳥羽院は100回以上参詣している。当時寄進された荘園は、16ヶ国28ヶ所にものぼった。南北朝期には後光巌院・後円融院等が保護を加え、室町幕府もこれにならった。

1470年の兵火で社殿以下を焼失、その後再建はしたが、往時の盛観は戻らなかった。1666年、東福門院和子が新たに工を起こして殿舎を造営、後水尾院・明正院・後西院等も、これを援助した。現殿舎は、この時の建物を中心とする。



若王子神社
熊野2

社殿は1160年の創建とし、後白河法皇が熊野那智権現をこの地に勧請したのが始まりという。社名は祭神の天照大神の別号「若一王子」にちなむ。禅林寺の鎮守社ともいわれ、禅林寺新熊野社ともよばれ、神仏習合の信仰のために、「若王寺」とも記された。

中世には武家の崇敬厚く、源頼朝や足利尊氏・義満より土地を寄進されている。また花の名所としても知られ、1465年3月4日には足利義教がこの地で花見の宴を催している。応仁の乱で荒廃したが、1582年に豊臣秀吉より寄進され、今川氏真の子若王寺僧正澄存によって再興された。

境内の大杉は高さ32m余で、紀州熊野から社を奉遷した際、ともに移植した記念木と伝える。



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