10月12日(日曜日星空


大聖寺から名和長年戦死地へ車
名和公園3

名和長年(?-1336)伯耆の豪族長田行高の子とされるが、その系譜は不明な所が多い。伯耆国名和浦を拠点に海上交通、商業活動に従事する家に生まれたと推測されている。

1333年閏2月、隠岐を脱出して伯耆に上陸した後醍醐天皇を船上山に迎え、鎌倉幕府軍を撃退した。その功により同年3月、従四位下伯耆守に叙任された。同年6月、後醍醐天皇を守り上洛、建武政権では記録所、武者所、雑訴決断所の一員となり、さらに東市正に任ぜられるなど、後醍醐天皇の腹心として新政権の施策を担った。

1335年10月、鎌倉で建武政権に叛した足利尊氏軍は翌年正月、京都に進撃したが、長年は近江瀬田で足利直義・高師泰軍を破り、京都では新田義貞等と尊氏を破り西走させた。しかし同年5月、尊氏が反撃を開始すると、後醍醐天皇に従い近江東坂本に移った。6月入京した尊氏軍を義貞等と共に攻撃したが、30日三条猪熊で戦死した(『梅松論』、『太平記』では大宮としている)。
建武の新政下で重用された楠木(キ)正成結城(キ)親光千種(クサ)忠顕、名和伯耆(キ)守と合わせて「三木一草」と称された。


名和公園

長年の嫡子義高(1302-1338)は父に従い、後醍醐天皇の隠岐脱出を援助、船上山で幕府軍と交戦する。 1333年に天皇を奉じて入京。後醍醐天皇による建武政権が発足すると、義高は武者所窪所の番衆に起用される。翌年、肥後国八代庄の地頭職を拝領した。

足利尊氏が後醍醐天皇に叛すると、父長年始め名和一族と共に応戦し、義高は北畠顕家に従い足利軍を迎撃したが、1338年5月に和泉堺浦で討死した。

家督を継いだ甥の顕興(長年の2子基長の子)は、後に義高が地頭職を与えられた八代庄に1358年下向し、一帯に勢力を扶植し、肥後名和氏の祖となった。その後征西将軍宮良成親王に属し、肥後の菊池氏と共に南朝に属した。


名和公園2

〝名和長年戦死地〟の石碑には萩が覆っていたあせる見頃開始ってとこかなはてなマーク

路駐の車が多く、撮りにくい叫び





(撮影日:9月22日)



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