6月8日(日曜日晴れ


妙満寺から妙顕寺へ車

妙顕寺は紅葉も美しいグッド!

紅枝垂れ桜は見頃でしたが、染井吉野は落花盛んでしたあせる

妙顕寺9   妙顕寺10

妙顕寺は具足山と号し日蓮宗本山。本尊は釈迦多宝仏。開基は日像で、当寺は法華宗の公武接近を実現した宗内最大の寺院。

妙顕寺11
日像は日蓮死後、上洛を決意し1294年京に入った。日像は洛中の裕福な商工人信徒を獲得し、綾小路大宮に法華堂を建立している。

妙顕寺8   妙顕寺6
1321年日像は三度目の洛内追放のあと、布教の勅許を得て法華堂を今小路に移した。

妙顕寺7   妙顕寺4
1333年、後醍醐天皇より尾張国松葉庄・同小家郷・備中国穂太庄が寄進され、翌年には後醍醐天皇の論旨で勅願寺とされた。



妙顕寺3   妙顕寺2
建武新政崩壊後も室町将軍家の祈祷所、北朝光厳院の祈願所となり、1341年光厳院院宣により四条櫛笥西頬地一町を賜り寺地を移転した。これ以後当寺を四条門流とよぶ。


妙顕寺5   妙顕寺
日像は1342年当寺で没したが、当寺の洛中での繁栄は比叡山衆徒の反撃に遭い、1352年法華堂を破壊された。1355年足利尊氏から、近江国佐津河東方田地・備中国宇垣郷内山篠村・同国河尻庄等を寺領安堵された。


1387年延暦寺衆徒に破却され、若狭国小浜に逃れた。破却後、後小松天皇より寺地の安堵を得、1393年には足利義満より寺地を寄進され、寺号を妙本寺と改めた。1398年義満は妙本寺に詣で、摂津国・相模国内で寺領を安堵された。1409年には足利義持の祈願寺とされたが、1411年再び延暦寺衆徒に破却され、丹波に逃れた。永正・大永年中(1504-28)頃、寺号を妙顕寺に戻し、1521年足利義植の命で二条西洞院の南に転じた。


1536年天文法華の乱で延暦寺衆徒や六角定頼に敗れた当寺は、堺の末寺妙法寺に逃れた。1542年洛内に戻り、旧地二条西洞院に再建した。1575年寺地を安堵されたが、1583年豊臣秀吉の妙顕寺城築城で現在地に移った。
1788年焼失し、現在の建物はその後の再建である。寺域内に尾形光琳の墓が有る。


(撮影日:4月8日)



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