6月8日(日曜日)
妙顕から本法寺へ
染井吉野は落花盛んでした
叡昌山と号し、日蓮宗本山。本尊十界大曼荼羅。開基は日親。日親は中山門流の僧で、当寺は日親が京伝道の際四条高倉に設けた弘通所に起こり、創建年次は定かではないが遅くとも永享年間(1429-41年)には設けられていたと思われる。外護は鎌倉妙本寺の大檀那狩野叡昌の娘理哲尼である。
1440年日親は将軍足利義教の怒りにふれ投獄された。1460年頃、日親は肥前で千葉胤鎮の外護のもとでの伝道中、他宗から非難を浴び、幕府は同年閏9月3日、京の当寺を破却し、加えて胤鎮に日親の逮捕と京への護送を命じた。日親は1462年京に入り投獄され、翌年出獄後、当寺を三条万里小路に再建した。
天文法華の乱で当寺は他の法華宗寺院とともに1536年7月、和泉国堺に避難した。天文の法難後、1542年11月後奈良天皇から洛内還住の勅許が下り、当寺は一条堀川上ル戻橋の地に再建された。
1590年、豊臣秀吉の洛中整理策によって現在地に移転。二十三世住持日近は後水尾天皇の信を受け、水戸光圀にも崇敬された。その後、紀州家代々の外護を得ている。
1788年の大火で類焼、現在の堂宇はその後の再建である。壇越には、本法寺開創当時から本阿弥家があり、光悦等一族の墓が境内にある。本堂の額は本阿弥光悦筆。
(撮影日:4月8日)
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