6月12日(木曜日)
善峯寺から粟生(あお)の光明寺へ
染井吉野、落花盛んでした
昨年の紅葉の時は、この周辺大渋滞だったので、引き返したけど・・・
桜の頃は空いていた
報国山と号し、西山浄土宗総本山。本尊は御影堂に法然作の「張り子の御影」といわれる法然源空像、阿弥陀堂には丈六阿弥陀如来像を安置。
『光明寺絵縁起』によれば、1198年3月、出家して法然の弟子となり信心も決定するに至った蓮生(熊谷直実)が、法然の勧めによってこの地に茅屋をつくり、別に仏殿を造立して六尺有余の阿弥陀像を安置した。蓮生は法然を開山初祖と仰ぎ、法然は寺を念仏三昧寺と名付け、親筆の寺額を与えた。蓮生は当寺に籠居ののち、寺を法友幸阿弥陀仏に付属して関東に下向、1207年武蔵国で没したが、その遺骨を念仏三昧寺に収め、一軀の影像をつくって当山第二代の祖師と定めた。
法然の生前から、延暦寺などの要請によって専修念仏はたびたび弾圧を受けてきたが、法然の没後弾圧は一段と厳しくなり、1227年6月には、京都東山大谷にあった法然の墳墓が延暦寺衆徒らによって破却されるに至った。門弟らは遺骸を嵯峨へ移し、次いで広隆寺来迎坊円空のもとに移し、1228年正月25日法然十七回忌の日、粟生野幸阿のもとで荼毘に付した。
のち四条天皇から光明寺の勅額を下賜され、念仏三昧寺を改名したという。
南北朝期や室町期には兵火により荒廃していたが、1564年12月幕府は再興を許可している。その後天正年間に兵火を受けたが、江戸期初期三二世倍山俊意のもとで聖廟以下寺観が整備された。倍山俊意は中興の祖とされる。1734年に主要建物を失う火災に遭ったが、その後相次いで再建されて現在に至っている。
法派相承が行われていた。
(撮影日:4月9日)
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