4月13日(日曜日)
城井神社の隣、中津城へ
1587年7月豊臣秀吉は豊前六郡を黒田孝高に安堵した。孝高は翌年尾畑氏の居城を修理しかつ営作した中津川の城に入ったという。
(復元された水堀と改修された石垣)
1600年9月9日大友吉統は西軍として立石で兵をあげた。孝高は同日、中津城を出馬し、高森城に入り、翌10日には高田を経て国東半島を横断し、11日には冨来城に向かった。しかし、木付城からの救援要請により木付へ転進して大友軍と対戦して吉統を下した。孝高は降伏した吉統をいったん中津城に禁固したあと、大坂に移送した。
同年11月2日東軍の諸将に恩賞が与えられた。黒田長政には筑前を、豊前及び豊後木付は細川忠興に与えられることになった。忠興は12月26日に中津城に入城した。
(中津城からの眺め)
1602年豊前小倉城ができると、子の忠利を中津城に置き、忠興は小倉城へ移ったが、1604年隠居して中津6万石を領し、中津城に住んだ。中津城の修築はこの頃からのことらしい。
貝原益軒の『豊国紀行』は「城は町の北、海辺にあり。天守なし」と述べている。(長篠合戦屏風が展示してあり、〝大〟の旗は武田勝頼。甲冑はたぶん奥平信昌のだったと思う)
1632年細川父子が肥後熊本城に移ったあと、小笠原長次が播磨国龍野より中津に移り8万石を領したが、1716年五代目長邕が6歳で没したため改易となり、翌年丹後国宮津より中津10万石を与えられた奥平昌春が入城し、1871年まで九代154年間奥平氏の居城となった。
(萩城天守を見本とした模擬天守)
1877年4月増田宋太郎らが西郷隆盛軍にくみして挙兵し、藩庁に放火したため灰燼に帰した。
天守の展示品は奥平氏関連、お土産品は黒田官兵衛関連グッズ・・・
(撮影日:3月26日)
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