11月7日(木曜日くもり


昨日も庭の散歩だけで、外に出なかった・・・

1週間外出無し・・・鬱になっちゃうやん叫び



伴野時長(六郎・長時)

小笠原長清の5子。建仁3(1203)年9月、北条氏に叛乱した比企能員に与した兄小笠原長経失脚後、小笠原家の嫡流を継いだ。承久元(1219)年7月、4代将軍藤原頼経の鎌倉下向の列で先陣の随兵を務める。同4年正月、弓始の義で射手を務める。同年7月にも小笠懸の射手を務めた。伴野荘は甲斐源氏一門の有力者であった平賀氏の本貫の地である平賀郷を含んでおり、承久の乱で幕府に敵対した大内惟信の任国を受け継ぎ、その後継となり伴野氏を称した。弘長2(1263)年8月9日、6代将軍宗尊親王上洛の随兵に選ばれた記述が『吾妻鏡』での時長の記録の最後である。





伴野時直(三郎・出羽守)

伴野時長の長子。娘は安達泰盛の母。





阿刀部長朝(孫六郎)

伴野時長の2子。信濃国佐久郡跡部に住む。子孫は甲斐へ戻り、甲斐国守護代跡部氏となった。





跡部駿河守(入道明海) ?-1464

応永24(1417)年甲斐国守護武田信満が上杉禅秀の乱へ荷担して討伐されたため守護不在状態となっており、逸見有直が関東公方の足利持氏と結び、甲斐国守護の座を志向していた。逸見有直は足利持氏を通じて幕府へ守護補任を要請するが、鎌倉府と対立していた幕府では在京であった信満の弟である武田信元を甲斐守護に任じ、信濃国守護の小笠原政康に命じて信元を甲斐へ帰還させた。この際に跡部駿河守・景家親子が信元補佐のため守護代に任じられたと考えられている。信元はまもなく死去したと考えられており、守護には武田信重が補任されるが信重は甲斐下向を拒否し、守護不在状態となった。甲斐では信満の子武田信長が中心となり逸見氏や鎌倉府の勢力と争っており、逸見氏は排斥されたが鎌倉府には屈服し、信長は鎌倉へ出仕している。跡部氏は信長の不在時に勢力を伸張し、信元や信長の子伊豆千代丸の意に反し独自の活動をしていたと言われ、永享5(1433)年には鎌倉を出奔した信長と争う。信長は日一揆を味方に跡部氏と争うが、跡部氏は輪宝一揆を味方につけて甲府の荒川で信長を駆逐した。翌年に跡部氏は京の信重の帰国を促しており、幕府と通じて鎌倉府に対抗しようとしていたと考えられている。それにより同10年、信重は小笠原政康の援助で甲斐国へ入国した。信重の許では、良く援けて甲斐の安定につくしたようだ。




※跡部景家(上野介) ?-1466

跡部駿河守の子。武田信昌が武田家当主になると専横を極め信昌幼少時から政務に介入して対立していたという。長禄元(1457)年12月28日の小河原高橋合戦及び翌年正月の合戦において信昌方を圧倒したという。この合戦で岩崎小次郎・岩崎源次郎・岩崎諏訪部等が戦死し、岩崎氏は壊滅的な打撃を被り、岩崎郷は景家が領する事となった。同2年には幼主信昌に代わり守護代として、塩山向嶽庵に都留郡田原郷を安堵した安堵状を出している。また、寛正2(1461)年景家の代官が上岩崎の氷川神社社殿を再建し、新殿造営棟札に景家を褒め称える語句があり、これは跡部氏の強盛を示すものであると言われている。父明海が寛正5(1464)年に死去すると、信昌は信濃諏訪氏の援護を受け夕狩沢合戦において景家勢を撃破し、文正元(1466)年閏2月西保の小田野城において景家を自害させた。この諏訪氏の信昌救援の背景を秋山敬氏は、幕府系(伊那小笠原氏・諏訪氏・武田氏)対鎌倉府系(府中小笠原氏・佐久大井氏・跡部氏)という対立としている。





※跡部摂津守 ?-1465

長禄元(1457)年5月22日、向嶽寺に本尊釈迦如来を寄進している。寛正6(1465)年11月24日武田勢と戦い、兄弟2人と共に討死した。





伴野長泰(弥三郎・出羽守) ?-1285

伴野時直の長子。弘安8(1285)年北条得宗家内管領平頼綱と対立した、従兄弟安達泰盛の霜月騒動には泰盛に加担し、討伐された。以後、小笠原家の嫡流は小笠原長氏に移った。





伴野泰直(四郎) ?-1285

伴野時直の2子。兄長泰と共に討伐された。





伴野盛時(二郎) ?-1285

伴野長泰の長子。父と共に討伐された。





伴野長直(彦三郎) ?-1285

伴野長泰の2子。父と共に討伐された。





伴野泰行(又三郎) ?-1285

『尊卑分脈』では、伴野長泰の3子。系図綜覧』では伴野泰房の子となっている。父と共に討伐された。





伴野長盛(孫三郎)

伴野長泰の4子。





伴野長貞(彦四郎)

伴野長泰の5子。





伴野泰房

伴野盛時の子。弘安8(1285)年の霜月騒動の難を逃れ、安達氏の領地三河国八名郡大陽寺庄に隠れ土着し、その後足利氏・吉良氏との結び付きを強めるため、吉良氏領地に隣接する西方の幡豆郡に移り住んだという。三河国幡豆郡幡豆郷の小笠原氏の祖となった。

                       ⇒幡豆小笠原氏





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