11月6日(水曜日晴れ


静養中なので、歴史ですチョキ



小笠原長清(加賀美次郎・信濃守)1162-1242

加賀美遠光の2子。母は和田義盛の女と言うが、年齢的に見て義盛の姉妹と考えられている。甲斐国中巨摩郡小笠原を本拠とし、小笠原氏を称した。源頼朝挙兵の際、長清は兄・秋山光朝とともに京で平知盛の被官であったとされ、母の病気を理由に帰国を願い出て許され、主家である平家を裏切り頼朝の下に参じたと伝えられる。『吾妻鏡』に拠れば長清は弓馬の術に優れ、建久4(1193)年3月21日に鎌倉鶴岡八幡宮に奉納された流鏑馬においては22人の射手が選ばれているが、この時に長清は武田信光とともに射手を務めたという。承久3(1221)年6月の承久の変に際しては、東山道の大将軍として上洛。その功により、阿波国の守護に補任された。同年7月、京方の公卿源有雅を甲斐国山梨郡稲積荘の小瀬村で処刑している。なお『吾妻鏡』文治2(1186)年10月27日条には、信濃国伴野庄地頭として名が見えている。




小笠原長経(太郎・豊光丸・弾正少弼・遠江守・侍従・小笠原入道)

1179-1247

小笠原長清の長子。母は新中納言邦綱の女。建久2(1191)年11月5日元服。加冠源頼朝。将軍源頼家に近侍する。正治元(1199)年4月、頼家が十三人の合議制に反発して指名した目通りが許される5人の近習にも選ばれている。同年8月、安達景盛が頼家の怒りを買った際、頼家の命を受けて安達邸を抱囲している。建仁3(1203)年9月、比企能員の変では、比企氏方として拘禁された。その後鎌倉を引き払ったと見られ、鎌倉では弟の伴野時長が小笠原氏の嫡家として重用されている。承久の乱に父長清に従い東山道大将軍として戦功があった。貞応2(1223)年、父長清の家督を継いで阿波国の守護となった。阿波国麻植保地頭にも補任されている。のち信濃国へ戻り、阿波国の守護職は子長房が継いだ。『葉黄記』によれば、宝治元(1247)年5月9日、京都の新日吉社で行われた流鏑馬の神事を務めている。




小笠原清行(弥二郎)

小笠原長清の2子。





八代長光(四郎)

小笠原長清の3子。






八代長継

八代長光の子。





小田清家

小笠原長清の4子。







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