6月9日(日曜日くもり


守護館跡(空印寺)から東光寺へ行ってみた車

東光寺って、『ちりとてちん』の撮影に使われたそうです・・・が、見た事無いのでなんのこっちゃ状態(`∀´)ケケケ

将軍足利義満の小浜での宿舎は、玉華院や栖雲寺であり、両寺の間に黒木の渡り廊下を造ったと『栖雲寺文書』に記されている。

現在は栖雲寺のみ残っている。

武田国信の法名は玉華院殿功林宗勲大居士であり、国信の菩提寺は玉華院であり、現在栖雲寺の向かいの寺は玉花山東光寺である。山号から考えるに、玉華院荒廃後に東光寺が建てられたと推察するが、その境内に国信の墓は無い。

四郎勝頼の京都祇園日記-東光寺

境内には皐月が咲いていたチョキ
四郎勝頼の京都祇園日記-東光寺2



武田国信(彦太郎・治部少輔・大膳大夫・宗動)1442ー1490

信繁3子。若狭・丹後守護。

丹後守護は1471年6月ー1474年5月まで確認されている。

応仁の乱では兄信賢とともに東軍に属し、1470年6月3日西軍の美濃国守護土岐成頼の上洛に対抗するため、如意岳に布陣したが、同国守護代斎藤妙椿に攻められ敗走した。しかし、1471年5月21日西軍の越前朝倉孝景が東軍へ寝返り、これを援助するため、6月25日細川勝元は国信らを敦賀に発向させている。

1475年4月、山名政豊細川政元の和睦の仲介役を務める。しかしこのときの和睦の条件の一つとして、武田氏が応仁の乱の最中に一色義直と戦って奪った丹後の所領を返還せよという条件があった。しかし、丹後に布陣していた国信の家臣逸見宗見らはこれを不満として一色勢と戦ったが結局同年9月15日、宗見が自殺するなど、武田軍は全滅した。和睦に参加した国信は援軍を丹後に送る事ができなかった。国信はこのとき、落胆して出家し、宗勲と号したという。

将軍義尚の六角討伐に出征した後、1489年若狭に下国した。

国信は文武両道に優れ、しばしば連歌や和歌の会を催している。


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