6月11日(火曜日くもり


栖雲寺から発心寺へ車

後瀬山城址の登り口を探してたら、偶然発見したチョキ


発心寺は大永元(1521)年、若狭国守護職武田元光の創建と伝えられ、元光は享禄3(1530)年に出家し発心寺に隠居、大膳太夫入道宗勝と称したが、事実上は実権を握り別所殿様と言われている。武田家が没落すると衰退したが、小浜藩主となった京極家から庇護され再興された。寺宝には武田の品々が多く木造武田元光像と絹本著色武田元光像が福井県指定文化財になっています。

注:1530年に出家した記録は無いよんチョキ36歳で家督を譲るのは考えにくいどすなぁ・・・上記はあくまでも、寺側の主張です。


四郎勝頼の京都祇園日記-発心寺2
この山門の両脇に沙羅の樹が植わってたチョキ

もうすぐしたら、咲くのかなはてなマーク



四郎勝頼の京都祇園日記-発心寺3
武田菱の瓦



四郎勝頼の京都祇園日記-発心寺

案内版

外国人カップルが自転車に乗ってやって来た∑ヾ( ̄0 ̄;ノ

日本人でも来なさそうな所に・・・

渋い外国人やなぁ(o^-')b


武田元光(彦二郎・伊豆守・大膳大夫)1494ー1551

元信の2子。『甲斐信濃源氏綱要』では、母は畠山修理大夫義統の女とある。

1519年元信出家後若狭国守護となった。

1522年後瀬山に城を築き、その麓に館を構えた。

1527年2月元光は丹波における管領細川高国家臣の内紛により、丹波勢が京都に迫ったため、西七条桂川でこれと戦ったが、大敗し近江に逃れた。

1538年2月27日には丹後国加佐郡田辺に陣してた元光の家臣粟屋元隆が突然帰国し、同年7月17日、谷田寺で武田軍と戦った。元隆は丹後へ敗走したが、同年9月再び若狭へ乱入する気配をみせた。一方、弟武田中務少輔信孝も越前から元隆に呼応して若狭へ乱入する気配をみせたため、元光は幕府を通じて越前朝倉氏にこの制止を依頼している。これら一連の反乱は、粟屋元隆らが、信豊の家督相続に反対し、信孝を擁立しようと企てたと考えられる。妹は朝倉孝景の室。

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