5月17日(金曜日星空


今日〝なんじゃもんじゃ〟を見るのが、第一の目的だったけど・・・何故か大津葛川~朽木~近江八幡~野洲車なんでやぁ~叫び



清水の桜を愛でた後は、福井県の小浜へ車
四郎勝頼の京都祇園日記-若狭彦神社
若狭彦神社

祭神:若狭彦大神 (彦火火出見尊)

式内社(名神大社)、若狭国一宮。上社・下社の2社からなり、上社を若狭彦神社、下社を若狭姫神社という。別称として郡名から遠敷明神とも呼ばれる。

若狭彦神社は畳・敷物業の神ともされ、現在はインテリア関係者の信仰も集める。社伝によれば、二神(若狭彦・若狭姫)は遠敷郡下根来村白石の里に示現したといい、その姿は唐人のようであったという。和銅7(714)年9月10日に両神が示現した白石の里に上社・若狭彦神社が創建された。翌霊亀元(715)年9月10日に現在地に遷座した。
四郎勝頼の京都祇園日記-若狭彦神社3
『延喜式神名帳』には「若狭国遠敷郡 若狭比古神社二座」として名神大社に列している。上社が若狭国一宮、下社が二宮とされた。
四郎勝頼の京都祇園日記-若狭彦神社2
伝承によると、ある年、奈良の東大寺二月堂の修二会で神名帳を読んで全国の神を招いたが、遠敷明神は漁で忙しかったため遅刻してしまった。そのお詫びとして、遠敷明神は二月堂の本尊である十一面観音にお供えの閼伽水を送ると約束したという。白石から下った所にある鵜ノ瀬と呼ばれる淵は、二月堂の若狭井に通じているとされている。旧暦2月には、鵜の瀬で二月堂に水を送る「お水送り神事」が行われる。その水を受けとる祭事が二月堂の「お水取り」である。

元々は上社が祭祀の中心であったが、室町時代ごろから下社に移った。中世には社家の牟久氏が京の官人や有力御家人と結びつき、広大な社領を有した。

この牟久氏は、孝安天皇の皇子大吉備諸道命の後裔鴨別命の子小篠が笠臣を賜り、笠氏の祖となった。そして、笠朝臣名高の子節文が若狭彦社の禰宜となり、以後子孫は若狭彦神社の社務職を務めた。景安に至ってはじめて神主となり、彼の子たちの代から牟久氏を称するようになったという。


とても清々しい境内だった・・・残念な事に、この日は本殿の前に男女が座り念仏を唱えてて、凄く気味悪くお参りも、撮影も出来なかった叫び

(撮影日:4月8日)

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