1月19日(土曜日晴れ


青柳延命地蔵大菩薩から東へ走る人

適当に左に曲がると、有楽稲荷へ走る人

このあたりは 織田信長の弟有楽斎如庵の本屋敷があった所。
四郎勝頼の京都祇園日記-有楽稲荷3
東京は有楽町(ゆうらくちょう)、祇園は有楽町(うらくちょう)チョキ


東京有楽町

関ヶ原の戦後、徳川家康より数寄屋橋御門の周辺に屋敷を拝領した。その屋敷跡が有楽原と呼ばれていたことから、明治時代に「有楽町」と名付けられた。


祇園有楽町

大坂城退去後、 有楽は京都二条に移り、建仁寺の正伝院、西来院、普光庵、

定恵院など四つの寺の旧地を買い戻して建仁寺に寄進して自らがそこに住んだ。

定恵有楽屋敷と俗に言われるこの場所は建仁寺の北側に位置し四条通りまで今のちょうど花見小路一帯が該当する。如庵はこのうち四条から南に下がって中程過ぎの東側、現在の歌舞練場辺りに建てられたと思われる。有楽の死後四郎勝頼の京都祇園日記-有楽稲荷

如庵には有楽の孫、三五郎長好空八が住んだと言う。


祇園の町家の中に、真っ赤なお稲荷さん・・新鮮で鮮やかに見えるチョキ
四郎勝頼の京都祇園日記-有楽稲荷2


有楽斎如庵(長益)1547-1622

織田信秀の11子で、織田信長の弟。

千利休に茶を学び、利休十哲の1人にも数えられる。後に自ら茶道有楽流を創始した。また建仁寺正伝院を再興し、ここに立てた茶室如庵は現在、国宝に指定されている。

天正2年(1574)年、尾張国知多郡を与えられ、大草城を改修する。以降信長の嫡子信忠の旗下にあったと思われる。

本能寺の変の際は、信忠とともに二条御所にあったが、長益自身は城を脱出して、逃延び、甥の信雄に仕えた。天正18年(1590)年の信雄改易後は、豊臣秀吉の御伽衆として摂津国嶋下郡内で2千石を領した。

関ヶ原の戦いでは東軍に属し、長男長孝とともに兵を率いて参戦。戦後に有楽斎は大和国内で3万2千石、長孝は美濃野村藩に1万石を与えられた。

関ヶ原戦後も豊臣家に出仕を続け、姪の淀殿を補佐した。大坂夏の陣前に大坂城を退去し、京都に隠棲し茶道に専念した。

四郎勝頼の京都祇園日記-織田有楽斎墓所

織田有楽斎墓所の石碑(正伝永源院)

宋から渡来した義翁紹仁(ぎおうじょうにん)(?-1281年)が開いた正伝院に始まる。天文以降、荒廃していたが、元和4年に織田長益(有楽斎)が再建した。
明治6年、旧永源庵の地に移されたときに、現在の寺号となる。永源庵は無涯仁浩(むがいにんこう)を開基とした寺院で、応仁の乱で兵火に罹ったが第十世の九岩中達(きゅうがんちゅうたつ)が再建した。

四郎勝頼の京都祇園日記-鳥居本

有楽稲荷の南側に有る、老舗料亭鳥居本(享保年間創業)

ここは女優田畑智子さんの実家ですチョキ

コレこの人ね

①弁財天社⇒走る人②辰巳大明神⇒走る人③なすあり地蔵菩薩⇒走る人④観亀大明神⇒走る人⑤目疾地蔵尊⇒走る人⑥青柳延命地蔵大菩薩⇒走る人⑦有楽稲荷走る人⑧に行くよぉ~チョキ


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