10月21日(日曜日晴れ


先日、実地調査の為に伊賀へ行った車

当然最初に一ノ宮に参拝グッド!


主祭神

大彦命(敢國津神)

大彦命は孝元天皇の第一皇子で、四道将軍として北陸を平定した後に、一族とともにこの地に永住し、伊賀国の開拓を行ったと伝えられる。

神社の北1kmの所には、大彦命の墓と伝えられる御墓山古墳がある。その子孫は伊賀国中に広がり、阿拝氏を称するようになった。後に阿閉・阿倍・安倍などとも書かれるようになった。その為、敢国神社は「あべ」姓の氏神であるとされる。


配神

少彦名命

金山比咩命


四郎勝頼の京都祇園日記-敢国神社


四郎勝頼の京都祇園日記-敢国神社2


中世までは、敢国神社の祭神は少彦名命もしくは金山比咩命であると考えられていたが、明治7(1874)、江戸時代の度会延経の説をとって大彦命とされた。って、神様変えて良いんだ!?この混乱は後述してますチョキ


四郎勝頼の京都祇園日記-敢国神社4

神社のパンフによると、『斉明天皇4(658)年の創建である。元々当地には秦氏が居住しており、彼らは少彦名命を祀っていた。また、大彦命の子孫の阿拝氏は祖神として大彦命を祀った。当初は、当社南方にある現在の南宮山の山頂附近で祀られていたが、後に現在地の南宮山の山麓に移された。元の社殿の跡地には美濃国一南宮大社より勧請された金山比咩命が祀られ、そのころより、この山が「南宮山」と呼ばれるようになった。貞元2(977)年、金山比咩命を祀る社殿の前の神木に「敢國神社と一緒に祀れ」という意味の言葉が虫食いの痕として現れたことから、神意に従って金山比咩命を敢國神社に合祀したと伝えられる。』とある。


四郎勝頼の京都祇園日記-敢国神社3

本来伊賀一ノ宮は敢(あへ)氏(のちに阿部氏)の国の神の社、すなわち敢国神社なのであろう。ところが祭神は、美濃一ノ宮からの勧請神とか、忍者の守護神と唱えられ、本来の氏神と混乱が生じたようだ。

この混乱は天正9(1581)年の天正伊賀の乱で、社殿と文書を失った事に因るものであろう。


四郎勝頼の京都祇園日記-敢国神社7



四郎勝頼の京都祇園日記-敢国神社6

本殿、綺麗な女性と出会いますようにごちそうさまパンごちそうさまパン



四郎勝頼の京都祇園日記-敢国神社5
本殿から鳥居を見る目



四郎勝頼の京都祇園日記-朱印


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