9月15日(土曜日晴れ


富松城址を十数年ぶりに見に行った車

南隣にスーパーが出来ててびっくり・・・駐車出来るチョキ


四郎勝頼の京都祇園日記-富松城址

東側から、入ろうと思えば入れたが、無断立ち入り禁止の看板が叫び

でも、柵は簡単に開くようになってるけど・・・

切株も多く、怪我しそうなので、無断侵入は辞めたチョキ

上の写真は、東側の土塁跡目


四郎勝頼の京都祇園日記-富松城址6

南側の土塁跡目

四郎勝頼の京都祇園日記-富松城址2
北側の土塁と水堀跡目



四郎勝頼の京都祇園日記-富松城址5
西側に有る看板

こんな事書いてるけど、十数年前から全然変わってないやんビックリマーク



四郎勝頼の京都祇園日記-富松城址3
西側の土塁と水堀跡目


四郎勝頼の京都祇園日記-富松城址4

西側に有る説明板


長享元(1487)年11月の「年貢算用状」に富松城の初見が見受けられる。平安時代にはこの地は富松荘と呼ばれた荘園であり、この時代から薬師寺氏が管理しており、築城も薬師寺氏の可能性が高いと思われる。


尼崎市教育委員会による最近の発掘調査の結果、この城跡の北側や南側から、15世紀頃までさかのぼると考えられる建物跡や堀跡が発見されている。仁木氏は、これより遅く16世紀なかば頃に、現存するような大規模な土塁を持つ城郭が構築されたものと推定されている。

ちょうどこの時期、室町幕府の有力者であり、守護として摂津を支配していた細川氏の内紛があり、摂津国の武将を巻き込んで各所で戦いが繰り広げられ、この時期の史料、『細川両家記』の記録に富松城が登場し、その記述から見えてくるのは、富松村の城、あるいは中世富松の有力な武士であった富松氏が拠る城ではなく、守護細川氏やその配下の武将が摂津において戦争を行なう際に兵を入れる、いわば城塞としての富松城の姿です。仁木氏はそんな富松城の性格を「公的城郭」と位置付けている。すなわち富松城は、伊丹城、大物城、越水城の中間地点にあり、境界防衛や連絡の城として攻防の要となり、たびたび戦火に見舞われているのである。

また、仁木氏は「ふたつの富松城」説を唱えている。すなわち、


東富松城

兵庫県尼崎市武庫之荘東2丁目付近(水堀、土塁の遺構が残っているのは東富松城)


西富松城

兵庫県尼崎市富松町2丁目付近(現富松神社境内地)


これは、『細川両家記』や『足利季世記』に、「西富松城」「東富松城」という記述が見受けられる事と、、富松神社に残されている二種類の富松村地籍図を参考に考察されたのだと思われるチョキ



仁木宏氏「戦国富松都市論-尼崎市富松城・富松集落の研究-」より


次回、阪神間で仕事が有った時に調べてみたいと思うグッド!





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