9月6日(木曜日くもり


【高槻城址】

室町時代入江春継の居城であったが織田信長に滅ぼされ、その後和田惟政、次いで高山飛騨守・右近が城主となった。元和元(1615)年内藤信正が城主となり、高槻藩が成立した。以後土定義松平家信岡部宣勝、松平康信と城主が代わり、慶安2(1649)年永井直清が城主となり、維新まで13代続いた。高槻城の文献上の初見は、大永7(1527)桂川原の戦い山崎城に詰めていた薬師寺国長波多野稙通に攻められ、高槻城に逃亡した記録である。


四郎勝頼の京都祇園日記-高槻城址
高槻城跡石碑


四郎勝頼の京都祇園日記-高槻城址2

高槻城解説板


四郎勝頼の京都祇園日記-高槻城址4

城址公園として、石垣が模擬復元されているチョキ



四郎勝頼の京都祇園日記-高槻城址3

城址公園内に立つ高山右近像

【高山右近】

1552-1615 高山飛騨守の子

松永久秀、和田惟政、荒木村重、織田信長、豊臣秀吉、前田利家・利長と主君を変えている。

天正10(1582)年6月に本能寺の変で信長が没すると、羽柴秀吉の軍に合流し山崎の戦いでは先鋒を務め、中川清秀、池田恒興と共に奮戦、明智光秀を敗走させた。賤ヶ岳の戦いでは岩崎山を守るが、柴田勝家の甥佐久間盛政の猛攻にあって清秀は討死、右近はやっとのことで羽柴秀長の陣まで撤退している。 その後も小牧・長久手の戦い四国征伐などにも参戦している。

天正13(1585)年播磨国明石郡に新たに領地を6万石与えられ、船上城を居城とした。しかし、まもなくバテレン追放令が秀吉によって施行され、右近は信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨てることを選び、小西行長に庇護されて小豆島肥後国などに隠れ住むが、同16年加賀金沢城主の前田利家に招かれて同地に赴き、そこで1万5千石を与えられた。

同18年小田原征伐にも建前上は追放処分の身のままでありながら前田軍に属して従軍している。金沢城修築の際には、右近の先進的な畿内の築城法を取り入れたといわれる。また越中国射水郡関野に築かれた高岡城の縄張を担当したといわれる。

慶長19(1614)年、徳川家康によるキリシタン国外追放令を受けて加賀を退去した。長崎から家族と共に追放された内藤如安らと共にマニラに送られる船に乗り、マニラに12月に到着した。イエズス会報告や宣教師の報告で有名となっていた右近はマニラでスペイン人フィリピン総督フアン・デ・シルバらから大歓迎を受けた。しかし、船旅の疲れや慣れない気候のため右近はすぐに病を得て、翌年の1月8日に没した。

葬儀は総督の指示によってマニラ全市をあげてイントラムロスの中にあった聖アンナ教会で盛大に行われた。


高槻市は城跡の整備に熱心なようで、綺麗な標識が多数有って判り易かった。



******************************
ランキングに参加しておりますニコニコ
1日1回のクリックで
応援よろしくお願いいたしますラブラブ


にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 京都(市)情報へ にほんブログ村 歴史ブログ 中世史(鎌倉・室町)へ
にほんブログ村 にほんブログ村